上杉謙信の美談「敵に塩を送る」実は打算だった そもそも武田信玄に無償で送った史実はない
さて、塩送りの史実性について考えてみよう。先述の『武田三代軍記』を読むと、今川氏真と北条氏康は、武田家の今川派筆頭である武田義信が自害した永禄10(1567)年の翌年すぐに塩留めを開始した。一方、『謙信公御年譜』は同10年秋のこととしている。このころ、氏真は同盟国の信玄が、駿河侵攻を企んでいるのを察した。氏真の妻は氏康の娘で、北条は今川びいきだった。氏真は北条を誘って塩留めを行う。
ここで考えてほしいのは、塩留めの狙いである。これが「経済制裁(Economic Sanction)」であれば、制裁の目的は警告をもって相手の外交姿勢を改めさせることにある。ところが氏真は武田に「こちらへの侵攻を考え直せ」と告げておらず、これには当たらない。
また「経済封鎖(Economic Blockade)」であれば、城を兵糧攻めするのと同じで、相手の降参が目的となる。ところが氏真は北条以外に、織田や徳川を勧誘しておらず、封鎖としては不完全である。こんな方法で、信玄が「駿河への野心を捨てます」とか「参りました」などと言うはずがなく、むしろ逆に「塩不足で領民が困っている。悪い氏真を討ち、駿河の海を取るべきだろう」と侵攻の名分を与えることにもなりかねない。
制裁や封鎖ではないので、政治の決着点は想定されていない。しかも自身の経済に打撃があるばかりか、商人たちの反発を招くリスクもある。場合によっては、信玄の動きが加速する危険もある。すると、塩留めは何が狙いだったのだろうか。
武田家領内で上杉への不快感を高めたかった
考えられる答えは1つしかない。氏真の目的は、武田家領内における塩の高騰と格差の発生、そしてそこから上杉への不快感が高まるという状況を作り出すことにあった。
それまで上杉は、武田・北条・今川の三国同盟と対立して、激戦を繰り返していた。しかし謙信のバックである近衛前久がリタイアして、京都に遁走してしまい、ただの消耗戦となってしまった。これに疲れた謙信は、東国の戦争を終わらせたいと考えていた。
将軍就任を望む足利義昭も、彼らと和睦して上洛するよう謙信に要請していた。これは三国同盟側にも伝えられた。謙信は、北条・武田と早く和睦したがっていた。この流れを好機とみた信玄は同盟を裏切り、侵攻先を上杉領から今川領に変更することを考えていた。
これに危機感を覚えた氏真は、塩留めを考えた。先ほど述べた通り、その狙いは、武田を内部分裂の危機に追い込み、その怒りを上杉に向けさせることにあった。
どういうことかというと、自分たちの手で甲斐を塩不足に追い込む。すると、上杉領から信濃と上野の武田領に輸出されている塩の値段は高騰するだろう。そこには親上杉派の領主も多い。
領民は、塩留めを実行させた顔の見えない氏真よりも、目の前で暴利を貪る商人と、その背後にいる上杉を恨むだろう。すると、長年の合戦でいがみ合っていた上杉と武田のことだから、関係修復は簡単に破綻する。
氏真と氏康はそういう考えで、塩留めを実行したのではないだろうか。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら