上杉謙信の美談「敵に塩を送る」実は打算だった そもそも武田信玄に無償で送った史実はない
すると片島武矩はどこで塩送りの逸話を知ったのだろうか。これは私の調査だけで、追究ができないでいた。そこへ富山市郷土博物館の主任学芸員である萩原大輔氏が、より古い文献を見つけだした。
それは山鹿素行の言葉を、その弟子が書き残した寛文5年(1665)の『山鹿語類』(巻第23士談3風流)である。ただし、ここでは今川氏真と北条氏康ではなく、織田信長と氏康が塩留めを実行するなど、部分的にはほかの記録と相違するところがある。
ここから『武田三代軍記』は、この『山鹿語類』を参考にしたのではなく、別の情報源があっただろうことを考えられる。
ところで、先に述べた片島武矩は、武田流軍学の開祖・小幡景憲の高弟の門弟だった。武田流の軍学者だったのである。そして山鹿素行も若い頃はその景憲の弟子として修業を積んだものである。逸話の出どころである2人とも、武田流軍学ゆかりの人だったのだ。
ここに、この逸話が史実であるかどうかを探る鍵がある。
どの軍記にも「塩送り」の逸話は掲載されていない
ここから私見を述べていこう。『山鹿語類』が現れるまで、どの軍記にも塩送りの逸話は掲載されていなかった。
上杉側にすれば、これは謙信を称える「いい話」だから、もし家中で知られていたら、大々的に紹介していたに違いない。ところが上杉家の軍記でも、初期のものではこの逸話が載せられていなかった。謙信流の軍学者たちはこの逸話を知らなかったのだろう。
その一方で、武田牢人やその門弟たちはこれを口伝していた。武田家ゆかりの人々に、謙信を褒めて歩く義理などあろうはずがなく、こんな逸話を創作する動機もない。するとこれは、信玄生前から武田関係者たちの間で語り継がれていた可能性がある。
武田家の記録『甲陽軍鑑』(信玄生前から書き継がれた歴史の記録を、小幡景憲が書籍化したもの)では、しばしば謙信に賛辞を寄せている。
同書の品第13に「敵であるのに謙信は信玄公を褒めた。信玄公も謙信を謗らず、嫉むことはなかった」とあるように、謙信と信玄は互いの長所を認めあっていた。同時代に、信玄は「日本一之名大将」と謙信を称揚している。信玄は見るべきところがあれば、それが敵であろうとも高く評価する大将だった。謙信のよいところを褒めるのは、信玄以来の伝統であった。
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