須賀:近代のフィクションである、「自立的な個人」というモデルも、個人に対して強い「圧」をもたらしていますよね。不確実な時代の中で、”すべての選択をあなたが決めていいです。ただ、自分の選択には責任をとってくださいね”というのは人類が目指してきた自由の獲得である一方で、人々の不安をより高めています。このような不安定な社会状況に対して、政治ができることは何でしょうか?
待鳥:全員が自由になって、自ら判断ができるようになれば、幸せになれると信じられ、これまで社会はそのような方向へと進んできました。しかし、今私たちが突きつけられているのは、それだけでは「強者の論理」になってしまう可能性が高いということです。自立して、自ら判断を下すことができない個人に対して、それはあなたの努力が足りないからだと言ってしまえば、ますます分断が広がっていくことになります。そして、自立した判断を「強者」の側が強要すればするほど、判断を強制された人たちは、わかりやすい答えを教えてくれる人についていくでしょう。そして、そのような答えを教えてくれる人こそ、ポピュリストと呼ばれる人々です。
正解がない問題に対して、”正解がないからこそ、価値があるんだ”とか、私自身も学生によく言っていますし、間違っているとはまったく思いません。しかし、”不確実性をむしろエンジョイしよう”ということは、ごく一握りの人たちが、ごく一部の時代にだけ楽しんでいることであって、人間の本来的な気質には反している可能性があることにも目を向けねばなりません。
だからといって、パンデミックへの対応のような、誰にも正解がわからない問題に対しても答えがあるように先導しようとすることは明らかな間違いですよね。ここが苦しいところで、私たちはとても難しい状況に立たされています。ここにもまた、バランスをとる仕組みが求められます。
須賀:はい。
これからの社会で「政治」にできること
待鳥:このような社会状況の中で政治にできることは、一般の人々に「考えていくための条件」あるいは「意思決定や選択を行ううえでの条件」を明示することだと思います。社会において、何か特定の問題について考えることというのは、実はすべてが条件付きで、自由に物事を決めてくださいという場合でも、実際には何かしらの条件あるいは制約があります。360度、どの方向にも自由に進めるのではなく、120度とか90度とか、下手をすると30度くらいの範囲から進む道を選ぶことになります。
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