「議論するカップル」がフランスでは日常のワケ 映画で知るフランスの男と女と家族と文化

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恋を始めるとき、フランス人はまずおしゃべりをする。そしてカップルになったらさらに深く突っ込んで相手に食い下がる。

そこには皮肉とシックさ満載だ。初対面でも政治の話、(離婚した過去も含めた)家族の話や恋愛話、未来の展望などをかなり直接的に話す。自分の意見がいかに正しいかをもっともらしく主張するため、詩人や哲学者や歴史などあらゆるものを持ち出す。

例えば、1950年代末に始まったフランスにおける映画運動ヌーベルヴァーグを代表する、フランソワ・トリュフォー監督。彼の映画は、登場人物がいつだってよくしゃべっている。

「アントワーヌ・ドワネル」を主人公とした映画シリーズ4作目、20代のカップル、アントワーヌとクリスティーヌの結婚生活を描いた「家庭」(1970年)のセリフをいくつか見てみよう。

「君は僕の妹で、僕の娘で、僕の母親でもある。」
「妻にもなりたかったわ。」
「地球が回ってる限りは君の隣で寝れる。」
「私はあなたみたいじゃないの。曖昧なのはいや、ぼんやりとか不明瞭とか適当なのとか嫌いなの。」
「おっぱいなんか変だよ。こっちがドンキホーテでこっちがサンチョだね。」
「確かに普通の女性とだったら君が怒るのはわかるよ。でも、キョウコは違う大陸の女なんだから仕方ないじゃないか。」
「小説で自分の若いときを語ったり親との確執を語って過去を汚すのはいや。芸術作品っていうのは過去の仕返しに使うものではないと思うし。」
「もし政治に携わらなかったとしても、政治自体があなたを占拠するしね。」
「僕は終わってしまうすべてが嫌いだ。それは映画の終わりだ。」
(筆者訳)

フランスでは相手と意見がぶつかることを恐れない

同じヌーベルバーグ時代の監督ジャン・リュック・ゴダールになると、詩的要素や政治要素がちょっと強まる感じに違いはあるが、「気狂いピエロ」でも「勝手にしやがれ」や「中国女」でも、やっぱりカップルがつねによく喋り意見を言い合っている。

こういったカップル間の議論(議論といえるだろう)の光景は決して映画の中だけのことではない。

実際に友人と話していると、歴史問題から今世界で勃発しているさまざまな問題について、必ず個人の意見を持っていることに気づく。他人と意見がぶつかることを恐れない、というより、まるでわざわざ相違点を探しているかのように、相手の意見に食い下がり、すぐには同意しない傾向がある。

なぜこんなことが起こるのか。それにはフランスの教育方針が関係しているといえよう。

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