渋沢栄一は何した人?偉業が目立たない深い訳 同時期に活躍した岩崎弥太郎とは対照的

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――その環境が渋沢に大きな影響を与えた?

そうですね。どの農家も農作だけでは生業が立たず、諸職業に従事していました。その結果、商品経済がどんどん発展していきます。

その1つが、渋沢の実家も力を入れていた藍玉の商売でした。しかも、価格が暴騰する時期にちょうど重なってくるわけですよね。幕末から明治の4、5年にかけて、藍玉の価格は4、5倍ほど高騰します。その波に乗れた家は次々と富農になっていきました。

渋沢の場合、父親が藍玉の商売を本格的に始めていくのを幼いころから身近で見ていて、それがうまく自分の中に浸透していった。学問として経済を教わったのではなく、家業の手伝いをする中で身に付けていったのです。要は、人、モノ、金が絶えず行き交うような環境で育ち、かなり小さな規模だったとしても、貨幣経済が確立された環境で育ったという生い立ちが大きかった。

そういう意味では、深谷という土地は、これからの時代を築くような人が生まれ育つような先進性を帯びた土地柄だったことは間違いないですね。

脆弱な環境が多角的な経営の才能を育んだ

豪農と呼ばれる大地主が血洗島周辺にいなかったのも大きかったと思います。当時の関東では、10町歩以上の土地を持つ家を「豪農」と呼ぶようなところがあります。ところが、血洗島で最も大きかった渋沢の親族の「東の家」でも、せいぜい1桁の規模の町歩数しか所有していなかった。

すると、どういうことが起きるか。どの家でも食べていくために金融もやり、農業もやり、養蚕もやり、藍玉の製造や買い付けも行わなくてはなりません。豪農のような商業活動をしながら、土地の集積という意味ではどの家もとても脆弱だったのです。しかしこの環境こそが、のちの渋沢の多角的な経営の才能を育んでいったと思います。

――渋沢は将軍慶喜の名代として訪欧使節団を率いた徳川昭武に伴い、フランスに行きます。そこでも影響を受けたのでしょうか。

渋沢が近代に目覚めたのは、訪欧がきっかけといって間違いないでしょうね。ただし、先ほど述べた血洗島周辺で繰り広げられていた貨幣経済という原風景があったからこそ、ヨーロッパで見聞したものをしっかりと吸収できたのだと思います。

遠くヨーロッパの地で新たな制度を目の当たりにしたとき、まったくそれがわからずに理解不能に陥るのではなく、自らの経験に当てはめて納得できたのでしょう。当然、規模としては雲泥の差があったでしょうけど。

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