渋沢栄一は何した人?偉業が目立たない深い訳

同時期に活躍した岩崎弥太郎とは対照的

そもそも攘夷に傾倒し、官尊民卑の打破を標榜したのは、「人々の生活を守るために世の中を変えたい」という思いがあったからです。しかし、攘夷では世の中を変えられないとわかると、すっぱりと攘夷論から離れていく。そして、体制の中に残るという道を選び、一橋家に仕官していきました。大きな転換点ですが、根底にあったのはやはり「今の世の中を変える」という強い意志です。

武士に敵対心を持ちながらも、目的を成し遂げるにはあえて武士にならねばと考えたのです。ただし、一橋家に仕官してからも、官尊民卑を打破し、世の中を変えるという気持ちを変えませんでした。

武士になったのは、何も上の身分に立ちたいと思ったからではありません。世の中を改めるには、社会を動かすところに身を置かなくては何もできないという事実に気が付いたからでした。渋沢は徹底した現実主義者でもあったのです。

変わり身があまりにも激しいので、確かに節操がないように映ってもおかしくはない。でも実際は、その時々の状況を総合的に見渡して、「今はこの道を行くべき」と自分なりに判断しています。そのときの時代の雰囲気に流されて、あっちに行ったり、こっちに行ったりしていたわけではありませんでした。

深谷の人たちは貨幣に慣れ親しんでいた

――そんな渋沢の卓越したバランス感覚、時代を捉える正確な判断力はどうして身に付いたのでしょうか。それには彼の育った深谷という土地や実家が農家だったということが影響しているのでしょうか。

武蔵国北部の農家の長男という言葉だけを聞くと、とても保守的で、古い考え方に凝り固まったイメージを強く持ってしまうかもしれません。ただし、そうした考えを一度脇に置き、出身地である深谷という地域を地図上で見ていくと、少々違ったイメージを得られると思います。

渋沢が生まれ育った血洗島(現深谷市血洗島)の北には利根川が流れていて、さらにすぐ南には中山道が通っています。江戸時代、あれほどの交通の要衝は多くないと言っていい。物資輸送の中継地点である河岸、宿場もあり、地域経済の中心でもありました。

ただし、農村地帯として見ると、残念ながら農作だけでは生業が立たないような土地柄でした。米が取れず、そのため本年貢は米という時代にあって、岡部藩の藩主は早くから金納の仕組みを取り入れます。

こうした事情があったので、あの地域の人たちは貨幣というものに慣れ親しんでいた。米が取れないので、そうせざるをえなかったんですね。

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