渋沢栄一は何した人?偉業が目立たない深い訳 同時期に活躍した岩崎弥太郎とは対照的

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――同時期に活躍した実業家とは一線を画していたのですね。

そうです。例えば、三菱財閥の創業者岩崎弥太郎とはよく比較されるんですよ。次のようなエピソードもあります。

明治11年、岩崎は向島にあった柏屋という船宿に渋沢を呼び出し、そこで2人は徹底的に持論をぶつけ合ったそうです。

当時、岩崎は日本の海運業を独占したいと考えていて、渋沢を自分たちの仲間に加えようとしていました。岩崎の考え方は、そのころようやく日本社会に浸透し始めた資本主義をまさに象徴するものだった。ところが、渋沢自身は合本法の考え方を持っていましたから、岩崎とはまったく考え方が異なります。

三菱財閥の拡大を第一に考え、大きな利益を得ようとする岩崎。経済発展を望む気持ちは共有しながらも、事業を世の中に定着させて社会全体を豊かにしようと考える渋沢。両者が手を結べるわけもなく、はっきりと袂を分かつことになりました。

考え方が柔軟なのも渋沢の持ち味

――両者共に日本の近代経済の発展に寄与したと思いますが、アプローチの仕方はまったく違ったのですね。

渋沢自身がのちに「岩崎とは個人的には昵懇の仲だった」と語っていますが、事業経営にあたっての考え方はまったく一線を画していたのです。

実際、過当競争のせいで疲弊を極めた海運業を復興するために、渋沢自身も設立に関与した三井系国策会社の共同運輸会社と郵便汽船三菱会社を合併させて、日本郵船を誕生させていますからね。

要は何が大切なのかをしっかりと見極められる人だったのでしょう。海運業を発展させようと思えば、個人的な考え方の違いなどは脇に追いやれた人でした。資本が合わされば、事業自体は拡張し、日本の海運業の発展につながるのはわかっていましたからね。であれば、必要に応じて合併すべきだと判断し、それを実行する。このように、考え方が柔軟だったのも渋沢の持ち味でしょうね。

――『渋沢栄一自伝雨夜譚・青淵回顧録(抄)』を読むと、バランス感覚のいい人物という印象を受けますが、実際はどうだったのでしょうか。

『渋沢栄一自伝雨夜譚・青淵回顧録(抄)』(角川ソフィア文庫)書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします

そうだったと思います。激しい生き方をした人でもありましたが、絶えず全体を見渡しながら総合的に判断する人でした。

さらに付け加えると、情報をものすごく重視する人だったと言えるでしょう。

青年期は尊王攘夷に傾倒し、横浜の外国人居留地を焼き討ちするという考えに染まっていった。そんな激しい考え方に浸っていたときでさえも、開港説の文献に目を通していましたから。

外から見ると、右往左往しているように映るかもしれませんが、渋沢の行動にはつねに貫かれているものがあります。

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