40歳の節目に「守る」か「攻める」か? 大草直子さんが選ぶ「変わり続ける」人生

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「男の人をひとりにしてはいけないと、前の結婚で教訓を得ていたので、それだけは避けたかった。子どもがいることを含めて私を丸ごと受け入れてくれた夫を一生愛していこうと、仕事を辞めて、子どもを連れて沖縄に渡る気でした」

実際、編集長にも、妊娠したこと、結婚すること、そして、沖縄に移住するつもりで、仕事は続けられないことを伝えていたと言う。

「それで、いざこの日に沖縄に行くねと彼に伝えたら、彼のほうが『東京に行く』と。沖縄での仕事はやり尽くしたと言うのです。

あのとき、彼がそう決断していなかったら、今頃、私は、幸せでたくましい沖縄の食堂のおばちゃんになっていたかもしれません」

35歳、ついに雑誌の「メイン」を張るように

33歳で第2子を出産する際も、出産直前まで働き、出産1カ月後に復帰するモーレツぶりを発揮。

「しぶとく仕事を続けていたら破水してしまい、入院中に上げた原稿もある」ほどだ。

「私は、どんなことがあっても仕事に穴を開けたことが1回もないのだけが、自慢なのです。ストレスで、潰瘍性大腸炎になり2週間入院したときも、母に口述筆記してもらい、何とか原稿を上げたくらい。もっとも、そんなことができるのも、夫も育児に積極的なうえに、家の近所に両親と妹がいてくれて、協力的だからですけどね」

こうした仕事への責任感や情熱に加え、世のファッションが大草さんが得意とする「カジュアル」にシフトしつつあったことも、大草さん人気を加速させた。

35歳になると、編集長からついに「これからはアナタのスタイリングをメインにしていくから」と言われるほど、『GRAZIA』での大草さんの存在感は増していた。

そして、37歳のとき、念願だった巻頭ページを担当。長らくの夢だった自分の本を出す夢もかない、しかも、その本が10万部近くも売れた。

第3子となる次女も妊娠した。激動の37歳だった。

「フリーランスになってちょうど10年で、ウソのように『下働き期間』が明けて、本当にやりたい仕事ができるようになったのです。その代わり、その前の10年は本当に何でもやった10年でしたけどね」

「自分の名前で食っていく」と腹をくくる

10年下積みをすれば、いつかは必ず報われる――。そう聞くと、まるで根性論のように聞こえるかもしれないが、大草さんは、「5年ワンキャリア」の節目ごとに、自分のキャリア戦略を立てる作業も欠かしてはいない。

「33歳のとき、第2子を産んだ前後で、腹をくくったのです。これからは、自分の名前で勝負していこうと」

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