ミツルさんはある地方都市でそば店を営む両親のもとに生まれた。小学生のころから宿題や教科書をたびたび忘れたり、物をよくなくしたりする子どもだった。授業に集中することができず、隣の子どもに話しかけては先生から怒られた記憶がある。
小学6年生のときの担任が両親に対して「とても私の手には負えない。転校を考えてみてもらえないか」と相談していたことを、後になって伝え聞いた。母親も「これほど手のかかる子は見たことがない」とお手上げ状態。父親は和食料理人として修業した経験を持つ苦労人でもあったことから、ミツルさんに対する評価は母親以上に厳しかったという。
このため、中学からは東海地方にある全寮制の中高一貫校に入学させられた。当時は超スパルタ教育を行う私立学校として知られ、後に教師や生徒によるリンチや事故死などが起きていたことも明らかになった。
「実際、軍隊のような生活でした。冬の朝4時から裸足で雑巾がけをさせられたり、トイレを素手で磨いたりさせられました」とミツルさん。
高校に上がるときに両親に地元に戻りたいと懇願したが、「お前が普通じゃないから、わざわざお金を出してこの学校に入れたんだ」と却下された。ミツルさんは「普通ってなんだよと、子ども心に傷つきました」と振り返る。
在学中の6年間、大勢の同級生が脱走したり、退学したりしていった。“脱走者”が捕まると、連座制として生徒全員が罰を受けた。ミツルさんは「周りに迷惑をかけるのが嫌で一度も脱走はしなかった」と言う。入学時約100人いた同級生のうち、高校を卒業したのはミツルさんを含め10人ほどだった。
一方でよくも悪くも規律正しい生活の中で、ミツルさんの成績は伸びた。このため高校卒業後は、東京の私立大学の医学部に進学。実家では親類も含めてミツルさんの“快挙”をたいそう喜んでくれたという。
「普通のこと」ができない
ところが入学後は、タガが外れたようにパチンコ通いがやめられなくなった。恐怖によって強いられた“規則正しい生活”は結局ミツルさんの身に付いてはいなかったのだ。慣れない東京での1人暮らしの中、自身を制御することができず、結局3年で放校処分に。親族からは「お前のために2000万円は費やしたのに、なんてざまだ」と責められた。
その後、別の私立大学に進学し、卒業後は地元の金融機関に就職。しかし、ここでは計算ミスや書類の不備をたびたび指摘された。銀行員としては致命的である。2年ほどでATMの保守点検をする担当に異動。ほどなくして自ら退職したという。
30歳を過ぎてから実家のそば店を手伝ったものの、ここでも摩擦は絶えなかった。店は地元では有名な人気店で、食事時には行列ができた。「お店が混んでくると、混乱して段取りがわからなくなるんです」とミツルさん。
例えば、温かいそばと冷たいそばを同時に出すときは、温かいそばが伸びないように冷たいそばから作るとか、「遅い」と文句を言ってくる客には先に食事を提供してでもさっさと店から出ていってもらうとか――。父親に言わせると「みんなが普通にできること」や「いちいち説明しなくても、見ればわかること」がミツルさんにはできなかった。
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