「奴らは最低」ビートルズ活動初期の意外な秘話 ジョンとポールが初めて出会った日
(最終候補者らと)食事をしている時に気づいたんですが、ほかの候補者は全員、私より若かった。ビートルズに関する話も、ジョンのリッケンバッカー(ギターのブランド)のこととか、一般的な内容になってしまう。
私は思いました。「彼らが求めているのはそういうことではない。この家はジョン・レノンが育った場所で、子ども時代のジョンに関する知識を知りたいのだろう」と。
当時の私には、今ほどの知識はありませんでしたが、私自身もウールトン地区育ちです。1950年代の実体験があります。ですから、私はウールトンや自分も知っているジョンの子ども時代の話をしたんです。ヨーコが求めていたのは、ジョンが子どもから青年時代を過ごした場所の話をできる人。メンディップスは、ビートルズ・ミュージアムではありませんから。
訪れる人は「ビートルズ前夜」に関心を抱いている
ナショナル・トラストとしてもそうだと思います。メンディップスも、(同じくナショナル・トラストが管理する)ポールの家「フォースリン・ロード」にしても、彼らの子ども時代と家族の暮らし、彼らの成長の背景がメインテーマなわけです。彼らの音楽の道程がここから始まったこと、ティーンエイジャーの2人の姿を伝えることが、管理人の仕事なんです。
ジョンは17年間メンディップスに暮らしていました。クオリーメン以前を含め、多くのストーリーがここに詰まっています。もちろん、訪れる人はビートルズに一番興味があるのでしょうけれど、多くの人が「ビートルズ前夜」の彼らに関心を抱いているのも事実なんです。
そして、ありがたいことに管理人に就任することになったんです。で、そこで初めて具体的な業務内容と採用条件を知ったんです(爆笑)!
――すると、住み込みという条件も採用決定後に知ったんですか。
そうそう!(笑) 何も考えずに申し込んだというのが、よくわかるでしょう。ほかの候補者は全員、当然ながら知っていたことですが。当時は(リバプールから離れた内陸部の)ダービシャーに住んでいましたから、焦りましたよ。少なくとも家探しの必要はなかったわけですが。
――本当に知らなかったんですか。
全然知らなかった。半ばショック状態で「この家のどこに住むんですか」と尋ねると、2階の奥の部屋、下宿の学生が住んでいた部屋に案内されて、「ここですよ」と言われたんです。愕然としましたね。
家に帰って妻に言いました。「仕事は決まったけれど、週5日、単身赴任でリバプールで暮らすことになった」と。でも、最終的にはすべてがうまく行って、それ以来素晴らしい日々を過ごしています。
私は10年間メンディップスに住んでいました。その一時期、妻のシルビアも同居していました。シルビアは、フォースリン・ロードのポールの家の管理人をしていたので、私たちはかなりユニークな存在でした。夫婦でナショナル・トラストの仕事として、ジョンとポールの家の管理人をしていたわけですから。シルビアは2020年に引退しましたが。
ほかでは経験できないことばかりでした。自分の子ども時代の経験を思い出して、話ができるんですから。第2次世界大戦の前後のリバプール、その当時の人々の暮らしや街の様子、そういうことはすべて自分の記憶に残っています。それに、リバプールに戻って来て住めたことも貴重でした。よく言いますよね、「いったん出た場所には戻るな」と。でも、私にとって、敬愛するジョン・レノンが育った家で暮らすことができるのは、本当に素晴らしいことでした。
(文中敬称略)
取材:越膳こずえ=ロンドン在住。ジャーナリスト、通訳・翻訳家。フロントラインプレス(Frontline Press)所属。
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