ジョン・レノンらが「ザ・ビートルズ」として活動を始めたのは、1960年のことである。「ラヴ・ミー・ドゥ」によるレコードデビューは1962年。そんな時期からほぼ60年になる。そうした歴史の息吹を感じさせるのが、ジョンの家「メンディップス」だ。管理人を長く務めるコリン・ホール(71)の日本のファンに向けたオリジナルインタビュー。第2回は、リバプールで人気が沸騰し始めたビートルズの逸話などをお届けする。
技術的に未熟な部分が多々あった
1960年代初めのビートルズはまだ四苦八苦状態だった。
音楽熱が高まるリバプールで次第に頭角を現していたとはいえ、ロンドンなどで活躍する人気アーティストのツアーに同行したり、それを逃したりといった状態が続く。そうした中、リバプールの音楽関係者が西ドイツ(当時)のプロモーターから「バンドをハンブルクに送ってほしい」と頼まれる。ハンブルクでは、リバプールから来たバンドが大人気を博していたからだ。依頼を受けたリバプールの関係者は、ビートルズに白羽の矢を立てる。
ところが、ビートルズが来ると聞いた同郷のデリー&ザ・シニアズはリバプールの音楽関係者に手紙でこう伝えた。
「何があっても、あのビートルズだけは送ってくるな。奴らは最低だ」と。
――デリー&ザ・シニアズが「ビートルズは最低だ」というのは、ビートルズが本当に下手だったからなんですか。それとも対抗心でしょうか。
デリー&ザ・シニアズは、本気でビートルズが下手だと思っていました。実際、ビートルズはまだ経験不足でしたし、技術でも未熟な部分が多々あった。固定ドラマーもいないし、(当時メンバーだった)スチュアート・サトクリフのベースは決してうまいとは言い難かった……。
しかし、ビートルズはハーモニーが際立って素晴らしかったんです。グループとしては不安定で、プロフェッショナリズムに欠けていましたが。
結局、ビートルズはハンブルクへ行った。これが歴史を変える一歩になったんです。トップのカイザーケラーではなく、ランクの下がるインドラ・クラブでの演奏でしたが、ここで経験を積み、バンドとしての一体感も生まれ始めました。
カイザーケラーに移る頃には、デリー&ザ・シニアズもビートルズの才能を認めるようになったんです。カイザーケラーには、リンゴ・スターが所属していたロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズも出演していました。
コリンが管理する「メンディップス」の風景
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ジョン・レノンが育った時代と同じつくりの台所
(写真提供:ナショナル・トラスト)
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台所には1950年台の調理器具がそのままある
(写真提供:ナショナル・トラスト)
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メンディップスに置かれているラジオ
(写真提供:ナショナル・トラスト)
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引き出しの底には当時の新聞が敷かれている
(写真提供:ナショナル・トラスト)
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世界中から大勢の見学者がやってくるツアー
(写真提供:ナショナル・トラスト)
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