「奴らは最低」ビートルズ活動初期の意外な秘話 ジョンとポールが初めて出会った日

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――教員だったコリンさんは、2004年からメンディップスの管理人を務めています。一人のビートルズファンが、どんないきさつで管理人になったのでしょうか。

応募当時は退職していましたが、代用教員を続けていました。ただ、正直言って好きな仕事ではなく、定年後も同じ仕事を続けることに情熱を感じなくなっていたんです。音楽マネジメントの仕事もやっていましたが、大きな収入にはなっていません。現実は厳しい。

そんな時、大学時代の同級生から電話があったんです。「ジョン・レノンの家が一般公開されてるのは知ってるだろう? 管理人を募集しているぞ。ビートルズが好きなんだし、応募したらどうだ?」と。タイムズ紙で広告を見たそうです。その1年前、2003年にナショナル・トラストがメンディップスの一般公開を始めたことはニュースで知っているよ、と私は答えました。

――コリンさんが最初から管理人だったわけではないんですね。

初代の管理人は、もともと1年以上勤めるつもりはなかったと思います。確か、大学院でアートを専攻していた男性で、博物館や美術館での仕事を目指していた。当時、メンディップスの一般公開は3月中旬から10月末までで、ツアーの参加人数も少なかったし、拘束時間として都合が良かったのでしょう。

でも、最終的には自分に向かないと思ったんでしょうね。若い人には難しい仕事です。住み込みが条件ですし。ツアーのお客さんはバスで来て、終わったら帰ってしまう。ナショナル・トラストの職員と会う以外は、仕事で定期的な人との交流がありません。孤独になってしまいます。しかも、メンディップスは中心部から離れていて、友だちと会うのも不便です。

ナショナル・トラストの広告には、ものすごい数の応募があったそうです。私はすぐに電話しました。金曜日のことです、すると、「締め切りは月曜日の朝9時です。申し訳ないが、申し込み要項や書類の送付が間に合いません」と言われました。ただ、せっかくだからということで、申込先の住所は教えてもらえました。

まずは手紙を書くことにした

どうしようか悩みましたね。そこで、まず手紙を書くことにしたんです。自分の経歴を詳しく書いて、(ジョン・レノンが育った)ウールトン地区に自分もかつて住んでいたということも含めました。本来は履歴書の添付も必要でしたが、その時間はないと思い、詳細な手紙を書きました。

『Get Rhythm』誌を手にするコリン・ホール。1949年生まれ。教職を経て、音楽ジャーナリストとしてのキャリアを持つ。メンディップスの管理人就任以来、エキスパートとして初期ビートルズの研究を続け、ボブ・ハリスと共同で『ジョンとポールが出会った日』を制作。ボブ・ハリスの制作会社WBBCとは『ビートルズが提供した曲たち』などの番組にも関わる。また、出版・番組制作の一環として、ポール・マッカートニー、ジョージ・マーティン、クオリーメンとのインタビューも行っており、英米のビートルズ関連の番組制作に協力している(写真:越膳こずえ)

それと自分が取材と執筆を行ったアストリッド・キルヒャー(ビートルズの公式写真家)のインタビュー記事が掲載された雑誌を同封しました。「Get Rhythm(ゲットリズム)」というタイトルです。この表紙の人は、知ってると思うけれど(表紙はジョン・レノン)……。

速達の書留で送ったところ、何とか締め切りに間に合ったんでしょうね。面接が決まって第1次面接に通り、第2次面接に進みました。

――第2次面接には何人残ったんですか。

4人です。それが最終選考でした。1次の面接官は、ナショナル・トラストのマネジャーともう1人でしたが、2次ではヨーコ・オノのアドバイザー2人が加わりました。候補者を含めて全員で食事にも行きましたね。それも面接の一環だったと思います。

それからメンディップスに連れていかれ、さらに面接がありました。各部屋にヨーコのアドバイザーがいて、ビートルズやジョンについて質問してくるんです。ダイニングルームに行った時、壁にアストリッド・キルヒャーが撮影した写真があり、それに関する質問をされました。

私は、アストリッドから聞いた話をそのまま伝えました。彼らが知っているエピソードとは誤差があったようですが、私が直接本人から聞いた話だし、本人が間違えるはずがないと主張しました。

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