ビートルズ誕生60年「歴史の証人」が語る実像 「ジョン・レノンが育った家」管理人の思い
――「まともな音楽」という捉え方をされなかったという意味では、1970年代のパンクと似たような位置づけですね。
その通りですね。ロックンロールは当時のパンクと言っても過言ではありません。でも、多くの意味で、スキッフルのほうが非常にパンク的だったと思います。スキッフルは「手作り」の音楽で、当時の若者は安い楽器や自分で作った楽器で演奏していたからです。それも、アンプの要らないアコースティックのものばかりでした。
キャバーンの創始者だったアラン・シトナーはジャズファンでしたが、収入を確保するために週1回「オープンマイク・ナイト」と銘打ち、スキッフルグループの演奏を行っていました。
クオリーメンはまず、そこに出演しました。ノーギャラです。その後、再出演の依頼があり、ギャラをもらって演奏したんですね。それが1957年の8月7日です。
ロックに門戸を開かざるをえなくなったキャバーン
――初めての出演は、ジョンとポール・マッカートニーが出会う前のことですか。
そうです。8月7日の出演は広告も出た正式なギグでした。その段階ですでにジョンとポールは出会っていますが(2人の出会いは1957年7月6日)、ポールは家族とホリデーに出かけていて、このギグには出ていません。
その後、時代が変わるにつれ、キャバーンはロックンロールに門戸を開かざるをえない状況になりました。経営上の観点からです。したがって1960年、61年頃にはビートルズを含めたロックンロールバンドも、キャバーンに出演できるようになっていたんですね。ビートルズとしてのキャバーン初演は、1961年2月9日のランチタイムセッションです。ギャラは5ポンド。つまり1人1ポンドでした。
――コリンさんがビートルズのことを知ったのは、いつ頃ですか?
12、13歳の時です。同じ学校の年上の友だちが「ビートルズっていうすごいグループがいるぞ」と教えてくれたんです。でも、私と同級生の友だちは大笑いしました。「シャドウズ」とか「トルネードズ」ならかっこいいのに、虫の名前っておかしいだろ、と。いかに自分たちのセンスがなかったかというのが、よくわかる話ですが(笑)。
なので、自分がキャバーンに行くようになった頃には、ビートルズは全国的なスターになっていて、キャバーンには出ていませんでした。
私はマージー川の対岸に住んでいて、フェリーや電車を使ってリバプールの中心部へ出ていました。行列ができることもずいぶんありましたから、電車を降りたら、ダッシュでキャバーンへ。オールナイトのライブもやっていました。
終電や最終のフェリーも終わっていますから、帰ることもできない。不良に絡まれたり、いろんな経験もしました。でも、キャバーンの中はつねに安全でした。音楽好きが集まって、いい雰囲気でした。大音響で生の音楽が聴けるんです。
当時のキャバーンにはアーチ型のセクションが3つありました。地下倉庫を改装しているので、天井が低く、すごく狭かった。階段も今のレプリカのような螺旋状ではなく、とても急で狭くて……。
両サイドのアーチはダンスフロアです。真ん中のアーチにステージがあり、そこでライブが行われていました。ステージも小さくて、グループは肩を寄せ合うようにして演奏していましたね。
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