「ナポレオンは背が低い」が正しくなかったワケ あのライト兄弟よりも先に空を飛んだ男がいた
その生涯はエジプトの歴史と同一視されている。クレオパトラは18歳でエジプト女王になり、20年以上にわたり国を支配した。
彼女はエジプト語を習得したプトレマイオス朝初の王として、また、エジプトの民族衣装をまとって肖像画を描かせた王としても知られている。
その一方で、姉と弟の殺害を計画するなど、みずからの権力を脅かすものを容赦なく排除し、ついにもう1人の弟(であり夫でもあった)プトレマイオス13世をも追放しようと国中を内乱におとしいれた。
高位の廷臣たちがプトレマイオスの側につくと、すかさずクレオパトラは、当時、共和制ローマの高位政務官「ディクタートル(独裁官)」に選ばれてまもないジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)を誘惑。
このとき、シーザーは世界でもっとも強力な軍隊を率いる指揮官でもあった。クレオパトラはシーザーとともに、あらゆる反対派を制圧した。
クレオパトラは「最期のファラオ」
シーザーが暗殺され、ローマに内乱が起きると、今度は彼の副官マーク(マルクス)・アントニウスを誘惑。こうした動乱の真っただ中でさえ、クレオパトラは暇を見つけては化粧品に関する本を書きつづっていたという。
戦いが終結したのは、オクタウィアヌス(のちのローマ帝国初代皇帝アウグストゥス)率いるローマ軍が、アクティウムの海戦(紀元前31年)でマーク・アントニウスを倒したときだった。
アントニウスは、クレオパトラが自害したと信じてみずから命を絶ち、その後、クレオパトラも命を絶った(最新の調査によると、エジプトコブラに自分を咬ませて死んだ史実はまったくないそうだ)。
クレオパトラが「最後のファラオ」だった。そしてローマ人がエジプトから膨大な量の金を持ち出したため、共和制ローマの元老院は即座に金利を12%から4%に下げることができたといわれている。
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