「退屈な文章を書く人」「名文家」の決定的な差 良い文章が書ける人=面白いを見つけられる人

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書き出しの三行、起承転結、一人称、文体、禁則事項ほか、1冊読めば、基本的な文章技術をすべて学ぶことができる。「書き出しの三行」とは、本や文章を読んでもらうには、最初の一文、長くても三行以内に、読者を驚かせ、のけぞらせなければならないということだ。それゆえの「三行で撃つ」である。

同時に、本書が数多の文章術の実用書と決定的に違うのは、読み進むほどに、言葉、文章、書くこと、つまりは、生きることの意味を考え抜かざるをえなくなる点だろう。

書くことが簡単なわけはない。しかし、考え抜き、自分の知らなかった自分を発見することは歓びである。だから書くことは、きっと愉しい。書きたく、なる。わたしに〈なる〉ために。

それが『三行で撃つ』に通底する思想である。では、考え抜くとは具体的に、どういうことか。

常套句を使うのが罪深い、2つの理由

例えば、著者が、文章の禁じ手の1つとして挙げるものに「常套句」がある。常套句を使うことが、考えるという行為の妨げになるからだ。

常套句とは、定型、クリシェ、決まり文句のことをいう。「抜けるような青い空」「燃えるような紅葉」といった表現だ。文章を普段からよく読む人ほど、かえって使ってしまいがちな表現だろう。こなれているようにさえ思える。しかし、これがいけないという。なぜか?

常套句を使うとなぜいけないのか。あたりまえですが、文章が常套的になるからです。ありきたりな表現になるからです。
しかし、それよりもよほど罪深いのは、常套句はものの見方を常套的にさせる。世界の切り取り方を、他人の頭に頼るようにすることなんです。
(53ページ)

すでにいろんな人によって使い古された表現である「抜けるように青い空」と書いた時点で、書き手はまともに空を観察していない、というのである。

他者の目で空を見て「こういうのを抜けるような青空と表現するんだろうな」と感じているだけなのではないか。他者の頭に自分を預けてしまっている。自分で考えることを放棄している。

空を見て、なにかを感じたという、いつもとは違うその気分、特別な心持ちを、自分の五感で観察し、自分だけの言葉で描き出そうとする。そうすることが、文章を書くことの最初であり、最後だと、著者は説く。

「言葉にできない美しさ」と、よく人はいいますが、それは言葉にできないのではない。考えていない。もっといえば、当の美しさを、ほんとうには感じてさえいないからなんです。
(56ページ)

ここまでで、考え抜くなんて面倒くさい。表現など自分には無用。最低限のコミュニケーションとして書く文章だけで十分だ、と思った人もいるだろう。果たしてそれでよいのだろうか。

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