「退屈な文章を書く人」「名文家」の決定的な差 良い文章が書ける人=面白いを見つけられる人
プロや、いい文章を書いてみたいと思っている人だけとは限らない。文章を書ける人は、ビジネスの現場でも有利である。
現代人は日常的にメールを書く。そのことに長い時間を費やす。メールの大半はなんらかの交渉のために書かれる文章だ。相手を口説くために書く。うまいメールを書ける人は出世する。
『三行で撃つ』では、上手なメール(手紙)として、編集者の依頼状を例に説明している。編集者は、一流の作家やライターという文章の練達の士を文章で口説く。
依頼の際は相手を三手で詰める。「自分はあなたを知っている」→「自分はこういう者である」→「したがって自分にはあなたが必要だ(あなたにも、自分は有用だ)」。
ただし、ストレートに「あなたと仕事がしたい」と書くだけでは、意外性がない。相手の「心を撃とう」とするなら、依頼者は自分だけの五感で相手を観察し、自分だけの言葉で、相手さえ気づいていなかった評を添える。
つまり、常套句を廃して書く。「面白い」を面白いと書くのではなく、なにを面白く感じたのか、エピソードで熱意を語る。考え抜く。相手に響く文章とはそういうものだ。
世界は変わらないが、書けば自分の救いとなりうる
では、なぜ私たちは文章を書こうとするのだろう。著者は、後半に進むほど、その問いを深めていく。ここではその解をひとつだけ紹介する。
徒然草に「雪のおもしろう降りたりし朝(あした)」という一節がある。目の前が開け、周囲が明るくなることを古来、日本人は「おもしろい」と表現してきたという。
それを踏まえて著者はいう。「鎌倉時代の粗末な庵では、早朝の寒気など、震え上がるだけのものだったに違いない。雪の朝なんてだれも「おもしろい」と思っていやしない。吉田兼好が〈発見〉した、おもしろさなのだ」。
おもしろさを見つけられる人は強い。それは、世界がおもしろくないからだ。
『三行で撃つ』を読めば、「書くこと」が、自分の救いとなりうることがわかる。世界は変わらない。よくも悪くもなりはしない。それでも、人間の真実を見つめることはできる。
読み終える頃には、きっと、何か書いてみたくなっているはずだ。
(ニューズウィーク日本版ウェブ編集部)
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