格闘家、起業…野球「元ドラフト1位」の波乱人生 戦力外から11年、古木克明が語る今の思い
30代を目前にした若者は、当時すでに自身のブランド力を自覚していたのだという。改めて問う。「古木ブランド」とはどんなものなのか? その答えに迷いはない。
「プロ野球の世界に入ったときから、僕には『有名になりたい』とか、『誰からも認められたい』という名誉欲みたいなものがありました。たとえ記録に残らなくても、記憶に残る選手になる。そんな思いで、華やかなプロ野球の世界に飛び込みました。
決していい成績を残したわけではなかったけど、それでも、輝かしい場所で僕はプレーをしました。プロ野球ファンの人たちの記憶に残る選手にはなれたとは思うんです。『古木ブランド』というのは、こうして築き上げたものなんです」
しかし、1990年代後半から2000年代にかけて爆発的ブームを巻き起こした未曽有の格闘技ブームはピークを過ぎつつあった。
戦力外通告を受けた直後の2009年12月に格闘技団体・スマッシュに入団し、翌2010年大みそかに華々しくデビューするものの敗戦。2011年4月に格闘家としての初勝利を挙げたが、この年限りで格闘家引退を決意する。再び古木が選んだのが「野球」だった。波乱の30代が始まろうとしていた……。
ハワイの地でようやく踏ん切りがついた
格闘家を引退した2011年11月に、古木は再びNPBの合同トライアウトを受験している。しかし、結果は不合格。その後も何回もトライし、そのたびに涙を呑んだ。
トライアウト受験は全部で6回に及んでいる。何度挑戦しても結果が出ない日々。この間、心が折れることはなかったのか?「もうダメだ」とあきらめたくなることはなかったのか?
「正直言えば、戦力外通告を受けた直後、2009年のトライアウトで不合格だった時点で、『可能性はほぼないな……』と思っていたんです。でも、僕をサポートしてくれた、いわば『チーム古木』のみんなの応援や激励を受けていると、『みんなのためにも頑張らねば』という思いになったし、みんなの協力に対して、『何とか報いたい』という思いが強くなっていきました。それは逆に言えばつらいことだったけど、その思いがあったから、ずっと続けられたとも言えるんです」
古木が「もう、辞めようか……」と口にすると、「まだ納得していないのなら、絶対に辞めてはダメだ」と鼓舞してくれる仲間たちが、常に周囲にいた。身を粉にして奮闘する彼らの情熱を無下にするわけにはいかなかった。自分だけの意思で、簡単に「引退する」とは言えない状況にあった。
「この頃は、試合に出られる環境ではなかったから、ただ練習ばかりの日々でした。生活のために居酒屋でアルバイトをしながら、練習場所を確保して練習、練習、練習、そんな感じの毎日でした。こうして、みんなの思いがさらに強くなっていく。簡単にみんなが辞めさせてくれない。辞めたかったけど、辞めさせてくれない。正直言えば、そんな感じでした」