不倫から殺人に至った父を持つ息子は、法律婚へ向かう
渡辺が事実婚を擁護する大きな理由はここにある。つまり、彼は性愛における「飽き」を受け入れたうえで、そこから自由に選び直すこと、再婚、三婚、四婚、ご自由に、という立場を採る。そのうえで、法律婚は離婚のコストが大きいと言って事実婚を擁護するのだ。
だが、そうした自由を強調することは、束縛する制度に執着することと表裏一体だったのかもしれない。たとえば、『愛の流刑地』の終盤では、主人公の息子カップルが、不倫から殺人に至る父の性愛を理解しながら法律婚を決意することで、未来が提示される。主人公が法律婚から外れた不倫に見いだした性愛は、次世代に冷静に法律婚に回収されてゆくのである。
また、『失楽園』の久木と凛子は、最後は身内の別荘を利用して、身内に遺言して死んでゆく。「所詮、身内のものがしたことである。」「これだけは最後の我儘として、許してもらうよりない。」、不倫によって親から縁まで切られ、渡辺の先の分類で言えば実態としては「事実婚」になったハズの二人も、結局は、家族に甘えるほかなくなっているではないか。こうして、渡辺の作品は制度の束縛に対抗しているようでいて、その制度の強固さをにじませてもいる。
彼は「事実婚におけるいちばんのメリット」を「事実婚は二人でいろいろ話し合って決めて、それを守っていこうという強い意思がまず必要になる」ことだと書いている。だが、それは事実婚特有のメリットではなく、事実婚の擁護になっていないことは、冷静に考えればすぐわかる。
渡辺は恋愛について突き詰めた揚げ句、法律婚とか事実婚とか、どうでもよくなってしまっていたのかもしれない。愛さえあればいいのだ、と。だが、その達人の結論は禅問答のようで、ぼくらには何らの指針を与えてはくれない。ぼくらはまだ結婚の形について悩む必要がありそうだ。
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