結婚マニアにとっての渡辺淳一とは?
4月末日、それもあたかも皐月に入らんかという時分に没したという。渡辺淳一(享年80)のことだ。今も昔も珍しくない医師兼作家で、初期の代表作は日本初の心臓移植事件を取り扱ったものだったが、今や渡辺淳一といえば『失楽園』や『愛の流刑地』などの恋愛小説家というのが一般の印象に違いない。
それはぼくにとっても同じなのだが、それ以上にぼくのような結婚マニアに印象を残しているのは彼の事実婚論である。
2011年の著書『事実婚 新しい愛の形』(集英社新書)は、事実婚を世間に周知しようとするものだったが、ハッキリ言ってしまえば時流に随分と遅れた代物だった。事実婚はもう随分と前から話題になっていて、この本にも対談相手として登場する福島瑞穂は1991年の著書『結婚と家族』(岩波新書)ですでに1章を割いて事実婚を論じていたのだ。
そのうえ、渡辺の事実婚イメージはちょっと奇妙でもある。そもそも事実婚とは単に、法律上の婚姻を経ていない結婚を指すにすぎない。つまり実態上は、普通の結婚と何も変わらないとされている。
ところが、渡辺の場合、「互いの家はもちろん、両親もほとんど介入せず、当事者同士だけの生活を楽しみ、子供を育てている」法律婚夫婦について「これで、法的な婚姻関係を結ばなければ、完全な事実婚である」と書く。
言い換えれば、渡辺は通常の法律婚/事実婚という区分とは別に、イエから切り離されているかどうかという区分を持ち込んでいるのだ。
おそらく無意識のうちだと思うが、こんな区分が持ち込まれた理由を考えてみると、それは渡辺にとって制度からの逃避=自由が重要だったからではないかと思う。彼は以前は事実婚のことを「自由婚」と呼んでいたけれど、イエのような制度の呪縛から逃れて、自由な悦楽を見いだしたいと思っていたのではないだろうか。
『失楽園』の中で、不倫に走る主人公・久木に「性ほど階級差がなく、民主的なものはない」と語らせたとき、それは、ともすれば階級によって左右されがちな結婚の秩序も、性愛をもってすれば破砕できるという革命宣言だったのだ。
ところが、その久木さえも、不倫相手・凛子への愛が永続する自信はない。かつて存在した妻への愛と同じように、いつかはこの愛も薄れてゆくのではないか、そんな不安に襲われるのである。