あと50年で「平均寿命」が33年も延びる理由 健康長寿を可能にする科学とテクノロジー
最近では、寿命を延ばすための医学的介入だけをテーマにして、国際会議が数週間に1回のペースで開かれるようになった。しかも、参加者はうさん臭い連中などではない。世界中の一流大学や一流研究機関から集まってくる。
この種の会議では、人間の平均寿命が10年長くなるだけでも世界がどれほど変わるかが、当たり前のように話題にされる。念のためにいっておくが、そういう未来が来るかどうかはもはや議論に上らない。そうなったときに私たちが何をすべきかが話し合われる。
私は最近、政界や実業界、あるいは宗教界のリーダーたちと会う機会が増えている。その際、新しいテクノロジーのことはもちろん、それがどんな影響を及ぼすかについても話すわけだが、そういう場面でも状況は同じだ。
彼ら(国会議員、国家の長、CEO、ソートリーダーなど)は、老化研究が世界を変える力を秘めていることに、ゆっくりながらも確実に気づき始めている。そして、後れをとりたくないと考えているのだ。彼らは間違っているかもしれない。私も間違っているかもしれない。でも私は、それを確かめるまで生きるつもりでいる。
孫の孫にも会える社会へ
「よかったよ、そんなことになる日まで生きていなくって」
こうした言葉をよく耳にする。たいていは、すでに引退した人や、間もなく定年退職を迎える人から聞こえてくるようだ。そういう人たちは、自分の人生があと20年くらいで終わるものと決めている。
当然ながらその間は健康でいたいし、できればそれよりもう何年かは余生を楽しみたくはある。だが、それを超えてずっと長く生きるとは考えていない。彼らにとっては、今世紀の半ばも次の千年紀も同じこと。完全に視界の外にある。
これこそが世界最大の問題だ。未来をひとごとだと思っているのである。
その理由の一端は、私たちが過去とどうつながっているかを見ればわかる。自分の曾祖父や曾祖母をじかに知る機会に恵まれた者はごくわずかしかいない。その名前すら知らない人も多いはずだ。
曾祖父母との関係は概念上のものである。それと同じで、自分のひ孫のことを考えるときも、ほとんどの人は具体性のないおぼろげな存在としか捉えられない。もちろん、自分の子どもたちの生きる世界がどうなっていくのか、心配ではある。彼らを愛しているからだ。
だが、老化や死というものを今の常識に照らして考えれば、自分が世を去って何十年かすれば子どもたちもまたいなくなる。孫のことだって、気にかけていないわけではない。