育児ノイローゼだったのか。わからない。いずれにしろ、彼女に娘を育てるつもりはなさそうだった。実際、彼女は特別養子縁組について調べ、娘をそこに託そうとしていた。だが自分は子を育てたくないわけではない。「僕が育てます」と言ったときの覚悟を顧みて、一浩さんはあらためて娘を育てあげる決心を固めた。
「二転三転する彼女の気持ちに振り回され、子どものことを大事に思っているのか疑問で、当時は相当、怒りがありました」
一浩さんを親権者として協議離婚が成立。彼女は「育てることに関わらない、養育費は払わない」と言い、一浩さんは受け入れた。そして「出張の多い今の仕事では、男手ひとつで娘を育てるのは無理だ」と考え、住んでいた地方から東京郊外の実家に帰り、自分の両親に子育て支援を受けながら生活することにした。
勤めていた会社は退職。以前とはまったく畑違いの福祉分野の仕事に就くことにし、訓練施設が用意した託児所に子どもを預け介護職員初任者研修資格を取得した。
娘の人生にとって大事な「お母さんに会う」こと
それから7年経ち、娘は小学1年生になった。コロナ禍、入学時期が春から遅れて大変だった。現在は赤いランドセルを背負い、元気よく小学校に通っている。
7年間、娘と毎日、生活を楽しんできた。仕事に出ている平日は祖父母や保育所や託児施設の世話になることも多かったが、休日はほとんど娘に捧げた。旅行にもよく出かけた。泊まりがけ、レストランで食事をするほか、公園に行くなどお金はかけなくても、毎日が楽しい。娘は大病なく天真爛漫にすくすくと育った。
一方で、一浩さんはずっと彼女=娘の母親のことを考え続けていた。
娘を会わせたいかと聞かれれば、複雑な気持ちになる。しかし、娘の人生の中でそれはとても大事なことだと感じる。
「それで、娘に『お母さんに会いに行こう?』と呼びかけています。娘は『お母さんの顔がわからない。お母さんのところに、私の好きなおもちゃがあるかもわからない。だから、まだ会いに行きたくない』と言いました。0歳1カ月のときに別れた母親は小学1年生の子どもにとって、知らない大人なんでしょうね」
無料会員登録はこちら
ログインはこちら