五輪125年の歴史、「デザイン」から見えた本質

資本主義、商業主義、都市文化の変遷を映す

ところが、そんなクーベルタンの理想主義的なオリンピックも長くは続かなかった。20世紀が幸か不幸か、資本主義の爛熟期にあったからだ。IOC(国際オリンピック委員会)が世界を意識すればするほど、オリンピックはクーベルタンの理想主義を逸脱し国威発揚と商業主義への利用が加速するというジレンマに陥ることになる。

オリンピックの「国威発揚」と言うと、しばしばヒトラーが政治利用した1936年のベルリン大会のことが取り沙汰されるが、本書で紹介されているデザインを見ていくと、ベルリン大会に限らずオリンピックが単なるスポーツイベントではなく、国民国家による開発独裁の成果発表となっていることを思い知る。当然ながら、デザインも開発独裁のシンボルとしての記号消費のトリガーにほかならない。

しばしば批判されるオリンピックの商業主義

オリンピックの商業主義は繰り返し批判される。実際、1984年ロサンゼルスオリンピック以降の大会がプロ選手の参加を認めるようになったことなども含めて、商業主義を疾走していることはどうしても否めない。その是非はともかくとして、オリンピックが行きすぎた国家による開発独裁やIOCへの権力集中を招くことになったのは間違いなさそうだ。しかし本書でデザインとその背景をたどってみると、その商業主義がかなり黎明期のオリンピックにも深く浸透していることがわかる。

なぜかオリンピックを語るときに触れられることはないが、第2回パリ大会(1900年)が万国博覧会、第4回ロンドン大会(1908年)が仏英博覧会の一部として開催された。単独での開催が財政的に厳しかったこともあるかもしれないが、結果的に産業振興や国際貿易促進を大義とする博覧会というイベントと手を携えたことがその後のオリンピックの運命を決めてしまったのかもしれない。

その頃から、黎明期にあったギリシャの神話的な表象は姿を消し、国家や都市の表象をデザインしようとする意図がはっきりと表れている。つまり、都市文化と消費社会が一体化することがオリンピックという大会のコンセプトのようになっていった。それがオリンピックの商業主義と開発独裁に道筋を与えたのだとも言える。

各デザインの洗練度は大会を追うごとに上がっていくのだが、そのデザインの詳細をたどっていると、どうしてもメディア史という観点は考慮せざるをえない気がしてくる。とりわけ20世紀の近代オリンピックにとって、テレビというメディアがもたらした生放送というフォーマットは避けて通れない存在である。近年でもハイビジョン、デジタル放送、4K、インターネット配信といったライヴでの放送あるいは配信の仕様はオリンピックのたびに格段に向上してきた。

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