そして、親しみをこめてもう一言付け加えるなら、正義感が強い情熱的な、人が困っているのを黙って見ていられない下町的気質も相まって、彼の探求のエネルギーとなっているのだろう。
「王様は裸だ」少年のように語るファーガソン
さて、熱い正義感の直球派=スティグリッツに対し、ベースの思いは共通しながらも、少々異なるパーソナリティーの重要な知性がもう一人いる。経済学の巨人の登場が中心となるこの「欲望」シリーズにあっては、変化球派ということになるのだろうか、歴史家ニーアル・ファーガソンだ。
こちらももちろん、不正義を見抜く目は鋭く厳しい理論家だが、飄々たる自由人、さまざまな場に出没しジャンルを横断、歩きながら、中空を漂いながら知見を積み重ねていく、知的なハンターという塩梅だ。
実際、ファーガソン自身、「歴史家」という肩書きのみに閉じ込めるのはあまりに無理がある。近年、歴史の中で見過ごされがちな、人々の背後にあるネットワークの重要性を指摘、富が生まれる構造を鮮やかに描き出す彼だが、実は彼自身、様々なネットワークの中にあるユニークな人物だ。
スコットランド出身で、イギリス、アメリカの数多くの名門大学で教壇に立ち、若き日にはフリーのジャーナリストとして、また放送業界で制作会社を作った経験もあるという。自身、「タワー型の階層性に縁があるとは思えずネットワーク型がしっくりくる」とし、政財界を観察しながら「金持ちであるより自由であり続けることを大事にしたい」とも語る彼の真骨頂は、飄々たるフットワークの中にある。
その軽やかなスタンスが、ドロドロした「欲望」が織りなす錯綜する事態の中にあってもフラットなものの見方を可能とさせ、「王様は裸だ」と言える観察眼の基層を成しているのだろう。
「自らシャットダウンした経済を刺激することはできない」。コロナ危機の最中での取材時の、ファーガソンの冷静な言葉だ。この時も、淡々と語ってくれた彼だが、この「自ら」というところにある厄介さに着目したのはいかにも彼らしい。
ウイルスという偏在化する脅威の前に、「自ら」萎縮する人々。あっという間に萎む消費の「欲望」と、将来への不安が膨張させる「貨幣愛」という「欲望」。いずれにせよ「夢」も「不安」も「希望」も「絶望」も、人々の「欲望」が投影されたスクリーンなのかもしれない。それはすべて、ある意味、人間の認識が生み出す影という言い方もできる。
そして彼は言う。恐れる最悪のシナリオは第三次世界大戦だ、と。このフラットで冷静な男が、淡々とした口調でこう言わざるをえない今。悪夢を繰り返さないために、人類の叡智が問われている。
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