「本当に欲しいもの」を知る人が持つすごみ スティグリッツとファーガソンを支える精神

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そこでカギを握るのは、最終的には人の心理であり、生きる信条、価値観の問題となるだろう。その時、一体、人類の「欲望」はどこにあり、どうねじれ、錯綜の歴史を重ねてきたのか? 再び考えざるをえない時が来るのかもしれない。あたかも、デジャヴのように。

「専門性」の罠を越える「過剰」な想像力を

理論と歴史と、それぞれ「専門」分野に立脚しながらも、そこからはみ出していく二人のパッション、センス、思考法の背景にある生い立ちや資質について、少し考察してみた。二人の依って立つ思考のベース、学問探究の「欲望」が一体どこから来ているのか? 総合的な人間理解から見えて来るものがあるように思う。

実際、多くの誠実な「経済学者」「社会学者」「心理学者」らが、その「専門」とする領域の厳密性、アカデミックな手続きに縛られすぎて、原点にあった、源泉となるある種の生のエネルギーの表出を抑制しすぎているかに見える今という時代にあっては、この彼らからあふれる人間性は貴重なものに思われる。

もちろん、視野広くあろうと努めるさまざまな分野の知性は他にも少なからず存在するが、やはり二人には突出した「過剰性」がある。その形はまったく異なるが、探究における徹底ぶり、視野広く対象を見極め、考え続ける横溢な想像力に、どこか共通するものを感じる。

ある種の精神の過剰性こそが、人を形作る。つまりは二人とも、人々が今作るこの社会とは一体何なのか? そこに「正義」はあるのか? そこにあるべき「秩序」とは何なのか? さらに人間の生きる力の源泉とは? 人間の持つ性とは? 自らの生きる原点の探究へと向けられた過剰なまでのパトスが自ずから湧き出し、洞察となり、思考となり、言葉となっているように感じられるのだ。

その意味で冒頭に触れたラカンではないけれど、精神分析家や哲学者たちが人々の心のメカニズムを解明しようとし、その奥底に潜む何者かをつかみだそうとし続ける姿と、重なる精神の動きがあるように思われる。片や経済理論、片や社会の歴史にしっかりと標的を定めながらも、その視野の中に人間の持つ性、矛盾だらけの厄介な性質を持つ人間という存在を、愛情を持って凝視しようという姿勢がそこにある。

そして、そうした探究の情熱の根源にあるのは、生まれつきの資質、生い立ち、人生経験……、とりわけ精神形成が成されていくときのさまざまな体験によって醸成されたものは決して少なくないだろう。二人は「お菓子が欲しい」という代わりにどんな行動で愛情を求める子どもだったのだろうか……。

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