「西洋文化の没落」が招いた現代の歴史的危機 スペインの思想家が「100年前に警告」したこと
だから、彼は、何か特定の信念体系、つまり「思い込み」に寄りかかるのではなく、自らのかけがえのない「生」を自らの手で組織しようとしたのであった。もう安心して「思い込める」価値はなかったのである。だが、そうかといって近代的な理性をあてにするわけにもいかないのである。
生とは、この根本的現実におけるたえざる選択であり決断であるほかない。その連続である。生は1つのかけがえのない実存なのである。
しかし、実存を、不動の過去からも不定の未来からも切断して、ただいまこの時点とこの地点の1点に凝縮してしまえば、実存ほど頼りなくも不安定なものはない。人の生は、それこそ「思いつき」の切れ切れの連接体となるほかなく、人はその「思いつき」の中を日々、西へ東へと浮遊することになろう。
その都度その都度の「思いつき」をそれなりに楽しむことができ、生の実存を、ただただ世間や社会の流行や風潮に同調させて、あたかも波乗りをするかのように刹那の愉楽を求めるのもまた、危機の時代の生ではあろう。
確かな信念体系を見失った社会が次々と送り出す新奇なものを追い求め、次々とやってくる波にうまく乗って世間の先頭を切って時代を遊泳するなどという生も一種の実存であろう。
世間の波が変われば、生の方向も変わる。何せ大事なのは「思い込み」ではなく「思いつき」なのだから。大事なのは、ひとつの信条に没入することではなく、一瞬の効果を楽しむことなのである。
信条などというものを固定してはならない。いや、信念体系などというものを持ってはならないのである。生を信念に結びつけるのではなく、世間を流通する情報や人々の思惑と同調させることこそが大事なのである。
こういう浮遊した生のあり様もまた、信念体系が崩壊した「危機」の時代の産物である。1つの「生き方」である。当人には危機の意識など皆目ない。むしろ、それは無意識のうちに危機を乗り切る簡便な智慧だとさえいえるかもしれない。こうして波にでも乗るように世間を泳ぐことができ
れば、そもそも「危機」などどこにもないであろう。
近代が失った「生の理性」
しかし、オルテガの生の実存はそういう種類のものではなかった。生とは、理性に従って物事を組織することでもなければ、欲望をひたすら実現することでもない。日々を刹那の愉楽でやり過ごすことでもない。
では、生とは何であろうか。古代ローマのセネカは「生きることとは戦うことなり」といったが、オルテガはそれを反すうするかのように言う。「生きるとは、軍旗のもとへの応募であり、戦闘準備である」と(『現代の課題』)。もちろん、オルテガはジンゴイスト(主戦主義者)ではない。「軍旗のもとへ」は1つの象徴的な言い方だが、わかりやすい真理を含んでいた。
戦闘において、われわれは、果敢さと慎重さを求められ、判断力と決断力を必要とされる。経験と分析能力を要求され、状況を分析し状況を変更する能力を求められる。そして戦闘においては生きるために生を賭す。とすれば、これほど、生のあり様を象徴的に述べる言葉もそうはないであろう。
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