「西洋文化の没落」が招いた現代の歴史的危機 スペインの思想家が「100年前に警告」したこと

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それはある環境の中で、ある課題に立ち向かうために、あらゆる経験や状況判断や勇気を動員し、それを総合して課題に対処する技術であり、またその技術を発動しようとする意志である。

それもある種の理性と呼ぶこともできるが、その理性は、抽象的で合理的な理性でも、目的を達成するための道具的な合理性でもない。状況と経験と決断を総合するような理性といってよい。

その精神の総合的な作用を、オルテガは「生の理性」と呼んだ。

それは、デカルトやカントに主導された西洋近代の「合理的な理性」ではない。オルテガの生の理性は「活動的生」といってよいであろう。さらにいえば、それは、プラトンの人間の3つの部分のうち、「欲望」でもなく「理性」でもなくむしろ「気概」に対応している、といってもよい。

ただそれは「生」のエネルギーの無鉄砲な、あるいは無条件の解放といったものではなく、あくまで1つの「軍旗」の下に結集されるエネルギーである。「軍旗」なら何でもよいというわけではない。エネルギーが結集されればそれでよいというわけでもない。そこに「理性」が働く。

いかなる「軍旗」の下にどのようにエネルギーを結集するのか、それは理性の作用による。したがって、「生」はその意味での理性に支えられなければならないと同時にこの理性自体が生によって生み出される。そこに「生の理性」がある。

まだ見ぬ「山の頂」こそ生の輝きを生む

生とは、何かに向かって自己を駆り立てることであり、その駆り立てる活動それ自体に意味を見ること、その活動の継続する企てこそが生そのものである。オルテガがいうように、登山とは、山を登ることなのだが、われわれはしばしば、それは頂上に立つことだと思ってしまう。

登ることは、いわば頂上に立つための手段だと思ってしまう。そして登頂した後の、頂から見た見晴らしについて語る。しかし、活動的生にとって大事なのは、登ることそのものなのだ。生とは、頂からすべてを見渡すことではなく、 頂に到達しようと労力をいとわず悪戦苦闘することなのである。

ここには、生に関わる2つの決定的な論点があるといってよいだろう。1つは、生に輝きを持たせるその最初のモチベーションは生を超えている、ということだ。この場合であれば「山」である。まだ見ない「山の頂」こそが生を駆り立てる。

と同時に、2つには、生を輝かせるその働きは、登山をするという現実の活動そのものにある。つまり活動的生そのものなのである。日常の生を超えたより高いもの、より高貴なもの、真や美や神的なもの、こうした超越的価値への希求があり、それを遠景において、この状況、環境の中で生きる「生」がある。「生」とは、この二重性に挟まれた具体的な活動そのものなのである。

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