「西洋文化の没落」が招いた現代の歴史的危機 スペインの思想家が「100年前に警告」したこと
とはいえ、そのように述べた途端に、同時に躊躇を覚えるのも事実である。それは、「歴史の危機」という言い方が実は無味乾燥なほどに疑似客観的で、いわば外挿的に見えるからである。それはひとごとのようによそよそしく気楽な言い方に響くのだ。
「危機」とはいったい何なのか。そもそも人はどのように危機を感じ取るのか。「歴史の危機」の時代に、その危機の中にいて人はどのように危機を感じているのか。いや、そもそも危機などと了解しているのだろうか。
それにしても「歴史の危機」という言い方は、へたをすれば、肝心の「危機」という観念が内包するはずの、運命的で避けえない崩壊へ向かう人々の心理の動揺や切迫した狂気への接近を表現しているのだろうか。
「危機」の深いパラドックス
ここでわれわれは「危機」という言葉のはらんでいるある種のパラドックスに気づくであろう。オルテガが述べるように、「危機」とは、生を統率する信念体系の動揺にある。だから、危機のさなかにあって、われわれは意思を決定するための信念体系を見失っている。
だが、まさにこの危機にあってこそ、われわれは真の決断を迫られるのである。
それゆえに、人は、本当に何事かを選び取り、決断すべきときに、自らの生の重要な決定を下す価値の崩壊に直面しているのだ。だが個人の生が本当に危機にさらされているとき、人は、いったいどのようにして、このような価値の動揺や行動の不決定に対処するのであろうか。
さらに考えてみよう。巨大な自然災害に見舞われ、家族や地域がほとんど崩壊にさらされている、
まさしく「危機」にほかならない状態にあるとしよう。このときに、人々はほとんど何も考えずに、自分の生を投げ出しても、家族や地域のために活動しようとするだろう。戦火に見舞われ、崩壊する町を命からがら脱出しようとしている者は、ただただ必死で助かろうとするだけだろう。
このとき、彼は確かに危機に瀕しているものの、彼の生への意欲や必死の決意そのものは危機にあるとはいえないだろう。果てしない戦場と化した故郷を捨てて、ヨーロッパへ命からがら逃れてきたアラブ系難民もまた価値の動揺の間をさまよっているなどというのであろうか。
彼らほど、命を守るために命を懸けることに必死でいる者はいないであろう。ファシズムに抗する地下抵抗組織に加わって命がけで活動する者にとって、その行動は危機だと思えるのであろうか。
こう見てくると、「危機」という観念の持つ、より奥深いパラドクシカルで困難な性格が浮かびあがってくるだろう。それは、その生が現実に危機にさらされている者にとっては、多くの場合、オルテガのいう意味での、すなわち、価値の動揺、確信を持った行為の不決定といった意味での「危機」は意識されていない、ということだ。
文字どおり本当の危機のさなかにあるとき、人はたぶん危機など意識していない。「危機」という言葉が持つ客観的で冷めた記述的なニュアンスが、「危機」が内蔵するはずの深刻さや動揺を表現できないのである。
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