「フェイク」と「ポピュリズム」は民主主義の本質 「事実らしく見える価値」を人々は求めている
とすれば政治的言説は、少なくとも民主政治においては、まず基本的にはすべてがフェイクというほかないのであり、政治は、たえず、その本質であるデマゴーグやポピュリズムへとなだれ込んでしまうであろう。そのことを前提にするからこそ対立者への「寛容」と自己自身への「自制」と制度化された「手続きへの信頼」が必要とされたのである。それらがかろうじて、民主政治の根本にある権力への熾烈な欲望を「むき出しではない権力闘争」へと置き換えてきたのである。
リップマンはメディア社会の到来しつつあるきわめて早い段階で、メディアの根源的なフェイク性(一応、この言い方を続けよう)を暴き出していた。しかも、大衆民主主義がアメリカ社会を急激に覆い、この新しい夜明けに向けて、人々が新たな文明の登場を予感している時代に、である。
新しい文明は多分にフェイクの様相を呈している
だが、彼の見通したメディアのはらむ根源的問題は、実は、民主主義によって輝かしい未来を生み出そうとする「アメリカ」において、まさにその民主主義に対して破壊的な意味を与えるものであった。
なぜなら、マスメディアこそが大衆を動かす装置であり、大衆の情緒や意見こそが民主政治を動かすものであるとすれば、人間の世界認識の限界は、そのまま民主主義の限界になるからである。もっと簡単にいえば、メディアの報道がいずれ何らかの意味でフェイクであるとすれば、民主政治そのものがフェイクであるほかなくなるからである。
そして、アメリカこそが「新しい文明」の建設者であるとすれば、その新しい文明の象徴は、何よりも、民主主義、マスメディア、大衆社会の三つ巴の登場であった。これらは決して切り離せるものではない。ということは、この新しい文明を代表するアメリカこそは多分にフェイクの様相を呈している、ということになるであろう。
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