「フェイク」と「ポピュリズム」は民主主義の本質 「事実らしく見える価値」を人々は求めている

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それが失われたとき、民主主義は、途端に、デマゴーグ(大衆扇動者)を生み出し、独裁政治を生み出す土壌となるだろう。そして、しばしば、過剰なまでの民意の尊重や自己主張の権利や平等性への要求などという「民主主義的価値」こそが、これらのモーレスを崩してしまう。民主主義が、それを支えてきたモーレスを崩してしまうのだ。こうして結果的に民主主義は破壊されるのだが、それを生み出すのもまた民主主義であってみれば、それは破壊ではなく自壊というほかない。

この場合、大事なことは、次のことである。「寛容」や「自制心」や「手続きへの信頼」の衰微が民主政治の崩壊を招く、といったとき、すでに民主主義は「真実」や「事実」とは無縁の政治であることが含意されているということである。

なぜなら、「寛容」にせよ、「自制心」にせよ、「手続きへの信頼」にせよ、それらの道徳的価値がなぜ必要かといえば政治は、確かな事実や真実によって動くものではないからだ。そこには、客観的で誰もが納得する事実などというものは存在しない(あるいは重要ではない)からである。政治が取り扱うのは、事実というより価値だからである。

人々は自己の利益や価値の実現を求める。そして利益も価値も衝突する。そこに民主政治の本質に関わる核心があって、それが意味することは民主主義にあっては客観的な「真実」や「事実」など当初から問題とはされていない、ということである。そうではなく、民主主義の根底にあるものは、「寛容」や「自制心」や「手続き」によってしか緩和することのできない「敵対」である、ということなのだ。

リップマンが予言した「アメリカ」の未来

したがって、仮に民主主義を言論による政治だというとしても、ここでは、言論はつねにある観点から語られる。いやある観点からしか語りえない。権力操作(多数を支持者にするという操作)の観点からあらゆる言語が吐き出される。野党の政治家がしばしば「事実を明らかにせよ」と与党を糾弾するのも、実際には、「事実」へ訴えることによって大衆への説得力が高まると考えているからだ。それは権力政治なのである。言論は十分に権力闘争になりうる。

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