「フェイク」と「ポピュリズム」は民主主義の本質 「事実らしく見える価値」を人々は求めている

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多くの場合、人々が求めるものは「事実」ではなく「価値」なのである。より正確にいえば、「事実らしく見える価値」なのである。あるいは「事実」を「価値」として求めているのだ。トランプ自身は、別に「事実」に関するこのような社会学的考察など施したわけではなかろうし、どこかでメディア論を勉強したわけでもなかろうが、彼ははからずも民主政治の根本に横たわる、それこそ、「隠された問題」を見事なまでに浮かび上がらせたのである。

多かれ少なかれ、民主政治とは、「真実」や「事実」を基準とする政治などではなく、イメージ操作によって多数の支持を調達する政治である。つまり、「フェイク」と「ポピュリズム」は民主主義の本質に属する事項なのである。したがって、トランプが口から出まかせ(フェイク)を話し、大衆迎合的(ポピュリズム)だから、民主政治の敵対者であり、その破壊者である、という批判はあたらない。

「フェイク」と「ポピュリズム」を駆使する権力闘争

むしろ、トランプ大統領の誕生によって、いわば「むき出しの民主主義」が現前化したといわねばならないであろう。「フェイク」と「ポピュリズム」を駆使した権力の奪取という「むき出しの民主主義」こそ、今日のアメリカのリベラルな民主主義の帰結なのである。

だから、それは確かに「民主主義の危機」であるかもしれないが、その意味は、「民主主義が後退している」からではなく、むしろ「民主主義が急進的に展開している」からといわねばならない。

われわれは、民主主義に対して、「言論を通じた討議によって真実に接近する政治である」などという外皮を被せて虚飾で飾り立ててきた。あるいは、「国民の意志という何ものかが政治的に実現される仕組みだ」などという偽装を行ってきた。だがそれこそがフェイクである。したがって民主主義こそ理想の政治システムだとみなすメディアは、それ自体がフェイクの片棒を担いだことになる。

トランプは、その覆っているものを剥がすことが本来の(古典ギリシャ的な意味での)「真実(アレテイア)=覆いを剥がすこと」だとするならば、トランプは、「真実」を語ったことにさえなる。ただそのやり方が、トランプ自身がまったく大胆にフェイクを述べ立てることによってであった。マスメディアも含めた政治世界において、「真実」とはフェイクそのものとなってしまったのである。

次ページ現象の背後に隠された「真実」など存在しない
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