例えば、おそらく今回のコロナ問題に関連してワイドショーに繰り返し登場している専門家たちの多くは、この「対話型専門知」の持ち主だと考えられる。寝食を惜しんでウイルスの分析に従事し、ワクチンや治療薬の開発に取り組んでいるような研究者たち(=「貢献型専門知」の持ち主)が、テレビ局に出向いてワイドショーに出演する時間があるとは思えないからだ。
ところが、ワイドショーに出ている対話型専門知の持ち主のほとんど全員は、ワイドショーの統一見解に沿った主張をする人たちなのである。この一点からしても、専門家と素人の間の通訳の役割を、適切に果たしうるかどうかは疑わしい。
どうしてその様な事になるかというと、視聴率や購読部数を上げることを行動原理としているメディアは、一方で専門家の中からメディアの主張を代弁してくれる人を選別する権力を保持しており、多くは実際にその権力を行使しているからである。
また、理想的なメディアが存在していて、つねに「中立」を維持しようとしていたとしても、対話型専門知を持った人たちの中には、貢献型専門知を持った専門家の知識なり研究成果を、意図的に歪めて政策決定者に伝達することに、インセンティブを感じる人もいるかもしれない。
例えば、専門知を実体どおりに伝達するよりも一定のバイアスを加えた形で伝達した方が、政策として採用される可能性が高い場合などである。その際のインセンティブとしては、政策として採用されることに伴い、政権周辺で魅力的なポストが提供されるといったことがありうる。
経済学は現実の複雑さに対応できていない
経済学と経済政策においては、自然科学に比べて、「貢献型専門知」を持つ経済学者自らが、「対話型専門知」の保有者を介さずに、政策決定者に積極的に働きかけるケースが多い。特に、「貢献型専門知」と「対話型専門知」を兼ね備える専門家が、社会的にはより高位のポストに就くという傾向がはっきりしている。これは「経済」がまさに社会や政治の中枢に位置する問題であるからだろう。
ジョン・M・ケインズやミルトン・フリードマンらはまさにそういう経済学者であったし、現代においても経済学の専門知は直接経済政策に反映される機会が多い。特にこの20年ほどは、経済学の専門知が金融政策の領域において多く採用されている。
他方で、経済学のもたらす成果は「天気予報」のようなものだとの批判もある。どれほど複雑なモデルを構築し高度なコンピューターに結果を出させたとしても、予測は非常に不正確なものにしかならないのである。予測の不正確さという点においては、経済学を天気予報と同列に扱うのは、むしろ気象学の専門家に対しては失礼に当たるかもしれないほどだ。
経済学は現実の経済が抱える複雑さにはまだまったく対応はできておらず、その専門知を現実社会に適用するに当たっては、本来、そうとう慎重であるべきものなのである。
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