それまでは戦争や軍部に対しても自由なスタンスで記事を書いていた新聞各社が、1931年に満州事変が起こると一斉に戦争推進の旗を振り始め、国民世論を誘導していく。戦後に言われたように軍部に強制されてのことではなく、購読部数獲得競争のために、自らの意思で戦争礼賛記事を積極的に掲載していったのである(筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』)。
戦争報道の過熱と国民世論の盛り上がりは相互フィードバック現象を引き起こし、「満蒙は日本の生命線」といったキャッチフレーズと共に、日本国中にある種の集団ヒステリー状態が広がっていく。
今回の新型コロナ問題でも、どのような方向性で番組を作ればテレビの視聴率が上がるかは明らかであろう。新型コロナウイルスがいかに恐ろしいもので、日本が今どれほど大きな危機に直面しているのかを強調して伝えれば伝えるほど、視聴者はテレビに釘付けになる。
メディアの行動原理としては当然のこととはいえ、今回のケースでは、メディアが「中立」であることの重要さや困難さということも大いに考えさせられることになった。
メディアの「統一見解」を強化する「専門家」たち
また、この数カ月間、コロナ騒動においてワイドショーなどを見た多くの人々が感じたと思われるのは、「感染症の専門家」という人が世の中にはこれほどたくさんいたのかということであろう。ニュース番組なども含め、地上波、BSを問わず、そうとうな数の「専門家」と呼ばれる人たちが連日テレビに登場して、ちょっとした有名人ともいえる存在になった。
そして、奇妙なことに、この専門家たちの語る内容も、ほぼ例外なくワイドショーの統一見解を強化する方向で統一されているのである。
筆者は、新型コロナウイルスに関しては、経済や金融市場の動向を分析するうえで必要な最低限の情報を入手しようと努めているだけの「素人」である。その素人の視点から見ても、ワイドショーが連日伝え続けている統一見解については、疑問に思うことが少なくない。
無症状感染者が多いウイルスであることが早い段階からわかっているにもかかわらず、死亡者数ではなく新規感染者数を強調して伝えていること、感染の広がりについてシミュレーションを行う「SIRモデル」に基づく一部専門家による過大な推計結果を、金科玉条のごとく伝え続けてきたこと等々――。畑違いではあるが経済統計などの数字を処理する仕事に携わっている人間から見て、明らかに問題があると思える事例が多くあった。
そして、そういう問題のある内容を、専門家とされる人たちが、いかにも「唯一の真実」であるかのようにワイドショーを通じて語っていることに大きな違和感を持たざるをえなかった。
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