日本が放置「戦争の民間被災者補償」が示す重み 戦争被害受忍論による敗訴は理不尽か、当然か

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1943年夏ごろになると、穏やかな日々は明らかに遠のいた。アメリカ軍の空襲を想定した訓練が何度も続く。翌1944年6月には本物の空襲が始まり、同15日にはアメリカ軍がサイパン島に上陸してきた。祖堅さん一家は、島でいちばん高いタッポーチョ山の中を逃げ惑った。

「6月のサイパンはとっても暑い。自分が『水が欲しい』と言ったもんだから、三男兄さんが水をくみに行こうとしてくれ、やかんを持った姿を今でも覚えています。それが最後。戻ってきませんでした」

「父は、飛行場建設に駆り出されていました。その父と合流できた翌日の真昼、木陰であくびしていた母が(四女の)トミ子を背負ったまま後ろにひっくり返ったんですよ。糸を引いたように真っ赤な血がぴーっと。どこかから(弾の)破片が飛んできたのか……。母は最後に『(自分を置いて)ここから逃げる前に、自分を何かで覆ってくれ』と言っていました」

祖堅さんの家族の名前とサイパン戦時の年齢を記したメモ(撮影:当銘寿夫)

サイパン戦はアメリカ軍の上陸からわずか3週間強で終結した。激戦の末、日本は敗北。戦没者は実に約5万5000人に達する。祖堅さんは父母を亡くし、きょうだいを亡くした。戦争が終わり、沖縄に引き揚げるときには、9人家族は3人になっていた。

戦後補償に潜む「格差」

サイパン島で逃げ回っていた日々から約70年後の2013年、南洋戦で肉親らを奪われた遺族たちが国に補償と謝罪を求めて「南洋戦訴訟」を起こした。原告の多くは当時、すでに80歳以上になっていた。

第2次世界大戦時に民間人が受けた被害に関し、国に補償と謝罪を求める裁判は南洋戦訴訟の以前にもあった。名古屋空襲訴訟(提訴年1976年)、東京大空襲訴訟(1979年)、東京大空襲集団訴訟(2007年)、大阪空襲訴訟(2008年)、沖縄戦訴訟(2012年)。訴えを起こした原告団や弁護団の多くが問題にしたのは「元軍人・軍属」と「民間人」との“差別”的な扱いだ。

政府は元軍人・軍属、その遺族には恩給などにより手厚く遇してきた。ピーク時の1983年度には1兆7000億円の当初予算が組まれている。直近の2020年度でも、予算額は1640億円になった。その一方で、広島と長崎の被爆者や沖縄戦遺族らを除き、政府は民間人への補償を実施してこなかった。日本弁護士連合会はその状況を問題視し、40年以上前から「法の下の平等に反するばかりでなく(中略)平和憲法の基本精神にも背く」として、政府に是正を要望してきた。

各訴訟の原告団も「人の命に尊い命とそうでない命はない」と訴え、格差の是正を求めてきた。しかし、いずれの訴訟でも「国は不法行為責任を負わない」として、原告側が敗訴している。

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