日本が放置「戦争の民間被災者補償」が示す重み 戦争被害受忍論による敗訴は理不尽か、当然か
第2次世界大戦前、南洋諸島に多くの移民
沖縄県うるま市に住む祖堅(そけん)秀子さん(82歳)は、「南洋戦訴訟」原告の1人だった。空襲や戦闘で犠牲になったり、ケガしたり、あるいは財産を失ったり。そうした戦争被害を何の補償もないまま受容すべきなのか。南洋戦訴訟はそうした「戦後補償裁判」の1つだったが、半年前の今年2月、最高裁で敗訴して終わった。今年は戦後75年。被害者はみんな高齢になり、南洋戦訴訟に続く戦後補償裁判は、もうないかもしれない。
祖堅さんも「戦争を体験した私たちの老い先は短いんです」と語る。
第1次世界大戦の後、日本は国連委任統治領という名目で、南に約2300キロ離れた南洋諸島を植民地にした。南洋庁を設置し、国策会社の「南洋興発株式会社」を設立。砂糖の大量生産を大々的に展開した。
南洋諸島や台湾などから安価な砂糖が大量に入るようになったため、沖縄県に多いサトウキビ農家は困窮し、職を求めて南洋諸島に移住した。最大の移民先だったサイパン島では、1939年時点で邦人約2万4000人のうち7割の1万7000人が沖縄県出身者だったという。
祖堅さんの父もそうした農家の1人だった。娘の秀子さんは1938年、サイパン島生まれ。秀子さんを含むきょうだい7人と両親とで穏やかな日々を過ごしていた。
「父は農作業を終えたら、晩酌する前に、一緒に働いた6頭の牛にお酒をあげていました。一升瓶に卵を入れて振って。『ご苦労さんだったな』と。牛のおかげで仕事もできて、儲かっているんだからと。牛もコンコンと飲んでいました。その光景や父のやっていたことは全部覚えています」
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