"幻の五輪"のために徴集された元日本兵の追憶 日系2世の元兵士が戦後もタイに残った理由

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「お父さんは福井の人で、ブラジルに移民で行った。サンパウロ。そこでコーヒー園で働いとった。だから、わしゃあ日系2世」

面長の顔に、短髪の白髪頭で、やせた身体つきは、手脚の長さも手伝って、上背の高さを強調して感じさせた。

「それが、1940年の東京オリンピックを見物しようというので、家族4人で東京に帰ってきた。お父さんとお母さんと、それにお姉さんが一緒にね」

当時は太平洋を横断できるような航空機もなく、船旅での訪日だった。だが、そのころには日米関係も悪化の一途をたどっていた。坂井はこう言及していた。

「パナマ運河を越えるときに、甲板を閉められてね、上に出ては駄目だと……。もう、アメリカとは仲が悪かったから……」

そうまでしてたどり着いた日本で、坂井は徴兵されてしまう。本来は20歳で徴兵検査を受ける義務があったが、このときの坂井は23歳になっていた。

「わしゃあ、籍が日本に入っとったんで、戻ってくると徴兵検査を受けさせられた。それから1年せずに兵隊に取られて、訓練のために朝鮮へ連れていかれた」

「史上最悪の作戦」に従軍

ところが、坂井はブラジルの生まれ育ちで、日本語がほとんどできなかった。そのことを理由に「日本語が間違っている」と言われては、上官からやたらにビンタを受けたという。

配属先は、輸送を担当する自動車部隊だった。1941年12月8日の開戦に合わせて南方に派遣され、まず香港を攻略。そのままマレー作戦に参加すると、シンガポールまで攻め入っている。その当時の日本の快進撃は戦史に残るとおりだ。

しかし、戦局は次第に悪化。坂井の部隊は「史上最悪の作戦」とのちに評されるインパール作戦に従軍することになる。

インパール作戦とは、戦局が悪化する中で失地回復を狙って、1944年3月に実行されたものだ。英国による「援蒋ルート」の遮断を目的に、インド東北部の都市インパールの攻略を目指す。ところが、兵站を無視したこの作戦は悲惨な末路をたどる。

兵士は20日分の食料しか持たされなかった。あとは現地調達で乗り切れと、現場任せ。やがては食料や武器、弾薬が途絶えていく。結局は現場の判断で、前線は撤退を始める。敗走中も英印軍の攻撃が続き、支援もないまま、多くの兵士が餓えと、マラリアやコレラの感染症で命を落とした。

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