彼らの元には「やるべきことははっきりしている」という志を持つ仲間が集いました。彼らは不自由な中でもできることがあることを知っていたのです。
カミュが求めているのは、アニメや漫画に登場するような英雄たちではなく、ただの人間。まったく英雄的な要素を持たないまま、「自分にできることをする」と、任務を果たす人間なのです。この姿に「自由な人間」というモチーフが最も表れています。
「実存主義」が示す「人間の自由」とは、夢や希望に満ちたものではありません。むしろ、厳しく己の不自由を自覚させるものです。
しかし、この不自由の自覚から、本来的な自由が見いだせるのです。選択は「なぜ」に対する答えが見えるから可能になる。私たちはこう信じています。
では、その答えがまったく見えないとき、何を選択したらよいのでしょう。それでも選ばなければならないのが「自由」なのです。
コロナ禍を経て、私たちはどんな未来を見るでしょうか。いや、未来を見ることはできません。しかし、未来は私たちに懸かっているのです。
誰かに頼るのではなく、自分で決めて進む
誰かが提示する未来のビジョンに向かって、一斉に猛進することはやめましょう。そのビジョンがまやかしだったとき、このような進み方は総崩れしてしまうでしょう。それどころか、取り返しのつかない大怪我をしてしまうかもしれません。
自然は人間の予測をやすやすと超えてくる。この衝撃は、まだ生々しく、私たちの身にしみているはずです。むしろ、未来は見えないということを自覚しましょう。
何もかも見えるから自由でいられるのではありません。見えないからこそ、人間は自由であり続けられるのです。盲目であることを自覚し、盲目にあらがう。こうして、今を丁寧に生きられるのです。
「ウィズコロナ」は、選択肢が2つあることを示唆しています。
自由を放棄し、見えているふりをして自滅する選択肢、もしくは、見えないことを自覚し、おごらずに生きる選択肢。
さて、あなたはどちらの側に行くでしょうか。どちらにいても、死ぬときは死にます。しかし、己の自由に誠実に生きた人間のみに許される言葉があります。
「すべてはいいのだ」
タルーの最期の言葉です。彼のように、ウィズコロナの時代を自分に誠実に生き切りたいものです。
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