死をタブー視しすぎる日本人の考えにモノ申す 「死を受け入れる」とは一体どういうことなのか
僕の知り合いの家の庭にケヤキの木があって、秋になると枯れ葉が落ちる。すると、近所のコンビニの店長が「汚いから片付けろ」と怒鳴り込んできて困ったよ、と言うから、「おまえが死んだらそのケヤキの木をどうするか、考えている?」と聞いたんです。
だけど、そんなことはまるで頭にない。自分の死は存在していないこととして扱っています。「自分がどうやって死ぬか」に興味を持つことはあっても、今のうちに準備できることはしようとはしないんです。
小堀:養老先生の何かの記事でいちばん印象に残っているのは、「人間には意識している世界と無意識の世界がある」と。要するに、意識しているものがすべてだと思っているから、意識できないものとかわからないものに対しては目を背けるようなところがある。死についてもそうですね。
気がついたら死んでいた、が理想
養老:僕は「気がついたら死んでいた」がいいです。よく、「死ぬならがんになるのがいい」と言う人がいます。死ぬ前に準備ができるから。だけど僕は、そういうことをしたいとは思いません。行きあたりばったりのほうがいい。
小堀:僕もまったく同じです。「往診中、車を駐車場に入れたときに」と答えたこともありますが、聞かれればそう言うこともあるだけで、確固たる何かがあるわけではありません。
ただ、病院のベッドで寝ていたくはないですね。朝、検温で愛想の悪いナースに起こされるのは嫌ですから(笑)。そもそも、1日のリズムが決められていますし、ご飯がおいしいとは言えない。だから病院では死にたくないですね。
養老:僕も病院は嫌です。だって禁煙だから(笑)。それに象徴されています。いろんなことをきちんとやらなくてはいけない。ただそれは、やはり家族の状況次第です。
小堀:養老先生のご家族は、養老先生のことをわかっていらっしゃるでしょう。
養老:あの人を病院に入れてもねって。そこら辺で死んどれ、って(笑)。
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