死をタブー視しすぎる日本人の考えにモノ申す 「死を受け入れる」とは一体どういうことなのか
養老:解剖をやっていると、亡くなった方も人だ、ということが通じないとよくわかります。死んだ人は特別だと思っているから、大事にしようとするとやたらと大事にしないといけないし、忌むべきものだとしたら、扱いがぞんざいになる。うんと持ち上げるか、うんと下げるかどちらかなんです。
僕は、口がきけない、動けない、そういう患者さんと同じ扱いをすればいいと思っています。患者さんが口をきけないからといって蹴っ飛ばしていいということはないでしょう? 僕はそこに差がないという意見です。
日本の文化は、死んだ人をかなりはっきりと差別しています。警察の隠語で、殺人事件の被害者を「ホトケ」と呼びます。水に溺れて死ぬと「どざえもん」。そうやって勝手に呼び方を決めて差別する。
自分の親しい人や身内の遺体を「ホトケ」とは呼びません。死体が不吉だという感覚は仕方がないのですが、近親者にとってはそうではありません。言ってみればその人たちにとってはまだ死んでいないんですから。
ブータンでは、遺体を山の上のお寺まで運ぶとき、大変な行列になるんです。鳴り物入りで、馬が3頭で引く馬車に乗せます。これは、お釈迦様が生きていたらこうするというやり方でやるとされているから。
小堀:そういえば、養老先生は著書でこう書いておられましたね。
解剖学の教官になって、学生に解剖させる時に、4人で1体の解剖を何カ月もかけてやるのですが、たまたまある遺体のところに小さな花が生けてあった。「これは何だ」と尋ねたら、その4人の中の誰かが用意した、とそんなエピソードを書いていらっしゃいましたが、そういうことですね。
養老:そうです。そこで、遺体が人に戻るんです。
死亡率100%だから安心できる
養老:「どういう死に方を望みますか?」と聞かれることがあるんです。いつも、「知ったこっちゃない」と答えています。いろんな生き方、死に方があるべきです。今はそれをなぜか知らないけど、一般の普遍性に乗せようとします。
だから、一人ひとりの生き方がかえってつらくなったり、面白くなくなったりしてしまったんです。人に迷惑をかけるのは問題ですけど、一度しかない人生ですから、適当な範囲でいいんじゃないでしょうか。自分の死に方なんてコントロールできません。人はいつか死ぬ。死亡率100%。だから安心できるんです。
小堀:僕も自分の死について考えたことはありません。ポール・クローデルというフランスの詩人は、子どもたちに、「自分は死ぬから隣の部屋へ行ってくれ、自分1人にしてくれ」と言っていたそうです。僕もそれだけの気力が残っていればそう言いたいですね。子どもに見守られたいとは思いません。子どもだって親が死ぬのを見たくないのではないでしょうか。
僕自身、自分の親が死ぬところは見ていません。親の死に目に会えないことを、親不孝のように言うこともありますが、それは日本の固定観念、美的観念でしょう。