死をタブー視しすぎる日本人の考えにモノ申す 「死を受け入れる」とは一体どういうことなのか
養老:70代になった頃、死について考えることがあったんです。ドイツやオーストリア、イタリア、フランスと墓巡りをして、それで、これは考えても無駄だという結論になりました。
僕の死は、自分にとってではなく家族にとっての問題なんです。僕は死んでいる。何もできない。家族は生きている。だから委ねる。
つねに死は2人称だから、僕のお墓は女房が勝手に決めればいい。それで初めて人に委ねるということがわかってきます。僕が海外へ虫取りに行って、そこで死んだら家族に迷惑をかけることになるでしょう。女房に何かあれば、僕が見送ります。そこはお互い様です。だから委ねるんです。これは人間関係の根本だと思っています。
「こういう死に方はみっともない」とか、「死ぬ前に準備をする」とか、そんなことを考えても無駄です。
僕がこう考えるのは、解剖の経験も関係しています。若い頃、死体を引き取りに行って、いろいろな死があることがわかりました。家族との関係もそうです。死ぬときはどうしようもない。それをわざわざ考えて不安にならなくてもいいんです。死を自分の問題と錯覚している人が多いのですが、本人には問題ではありません。だって死んでしまうんだから。
自分は死なないと思っている
小堀:あるがん末期の患者のところへ、いつも診察している医者の代わりで診察に行ったことがあるんです。僕が訪問するのは、死への準備を始めている人たちで、その人もかなり衰えていたのですが、本人も看病しているお母さんもどこか吹っ切れていないように感じました。病院に入っていたほうがよかったんじゃないか、とか、まだ治ると思っているんです。それでは、どういう死に方がしたいのかを考えることはできません。
それで僕は、この病気はもうよくなるということはないということを言ったんです。今の僕の仕事はそういうことです。あれで2人は吹っ切れたんじゃないか、と言ってくれた人もいました。
アルコール依存症の人がウイスキーをがぶ飲みして死んだり、ニコチン依存症の人がタバコ買いに行く途中で死んだりということもあります。彼らがしっかりと死に備えたほうがよかったのかどうかは、わかりません。ずっとその日暮らしをしてきて、そんなことはこれまでまったく考えたことがないという人だってたくさんいます。それはそれでいいと思うんです。そんなにすべてうまくはゆきません。
養老:僕が東大を退職するときに、「不安はないのか」「今後の計画はあるのか」と聞いてくる人がいたので、「自分はどういう死に方をするのか、計画はあるか?」と聞き返したら、怪訝そうにするんです。
そういう人は、「自分は死なない」と思っています。その人の日常に、自分の死は存在していないということです。