大学は甲殻動物から脊椎動物になった?? 古市憲寿×吉見俊哉対談(下)

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「通過儀礼」から「連続性」へ

古市:続いて、縦骨とは具体的にはどのようなものでしょうか。

吉見:「縦骨」は、高校と大学をどうつなぐのか。大学と社会をどうつなぐか――「連続性を持たせる」ことです。現在、日本の大学は、高校生と社会人の“間”にあるという、通過儀礼的な存在になってしまっています。

現状は大学が時間の壁で閉じられています。入り口が入試、出口は就職活動です。その壁の向こう側に何があるかわからないまま、高校生は入試に一生懸命、大学生は就活に一生懸命になる。壁の先が見えていないのに必死です。これはリスキーなことだと思うのです。

古市:なるほど。

吉見:高校と大学の連続性は、たとえば次のように断たれています。大学の工学部や農学部、医学部、法学部では、「実践知」が教えられています。それは高校で学んでいる、いわゆる入試科目にはなく、高校では教えない。それでは高校生はどのように「実践知はどのように学んでいくか」を知ればいいのでしょうか。大学は「何を学ぶ場」で、高校の学びと「どうつながっているのか」――を知らせて、カリキュラムギャップを減らしていく必要があると思います。

大学は、現在の通過儀礼的な場所から、学生の「キャリア」や「ビジョン」を転換する“ギア”になるべきだとも思っています。私は「大学は人生で3回、入学・卒業するのが当たり前の社会になるべきだ」と主張しています。1回目は現在と同じ18歳、2回目は社会人を10年近く経験して、管理職になる手前の30歳代、3回目は社会人定年後の60歳前後。新しいキャリアやビジョンを見つけることが大学の役割になれば、転機に大学入学することが当たり前になる。

古市:これまでの「大学の未来」の話はとてもワクワクしたのですが、甲殻動物の権化とも言える、東大でそんなことができるのですか。

吉見:東大にできるか――というか、日本の大学全体の問題だとは思います。とはいえ、完全にできなくても、できる可能性はあると思っています。10個やりたいといって、1~2個実現できるかどうかだとは思いますが、「やる」と言う必要は常にあると思いますね。

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