コロナで考えざるをえない自分や近親者の生死 生命は究極的に制御不可能でありいずれ終わる

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そもそも「65歳以上」「高齢者」と、特定の年齢層に単一のイメージを押し付ける作法にすでに差別の萌芽がある。「子ども」「若者」「サラリーマン」「主婦」「高齢者」といったステレオタイプに基づく言説や政策は、非常時にはなおさら悪夢のような光景をもたらす。

なぜならそこに個々の事情がある「顔の見える他者」はいないからだ。加えて、日本は欧米のような個人主義が強くなく、先述のような意思カードが定着してしまうと、自分の意思よりも「世間体」を優先して治療を諦める人が相次ぐことが危惧される。「若い人に譲る」ことの既成事実化である。

さらにもっと問題が根深いのは、わたしたちは「高齢者」などとひとくくりにしがちであるが、不思議なことに自らが高齢者になることは驚くほど想定されていないことだ。これは老化への反動であるアンチエイジングブームの奥底にある「時間感覚」の欠如とでも評すべきものだ。

わたしたちは健康体ゆえの無責任な立ち位置を好む

「時間」とは何か? それは生成と消滅であり、誕生と死であって、誰1人この制約からは逃れられない。しかしながら、わたしたちはしばしば重大な決定をする際に「時間の外」にいるのだ。衰えたり、病んだり、死んだりしない社会的な存在として物事を判断するのである。

自他が生物的な存在であることをケロリと忘れてしまい、よって周囲の「身体性を考慮しなくなる」厄介な思考である。ほとんどすべての現役世代が確実に介護が必要な高齢者(あるいは障害者)、つまりは「災害弱者」に仲間入りをするにもかかわらず、「生産年齢人口」という繭(まゆ)に包まれた健康体ゆえの無責任な立ち位置を好むのだ。

例えば、個人が主体的に決める延命措置の停止(これはこれで解決が困難な課題がいくつかある)と、優先順位ありきで実質的に強制される延命措置の停止には、外見上似たような光景に映ったとしても天と地ほどの開きがある。後者は、津久井やまゆり園の事件で顕在化した優生思想的な「命の選別」を容認する空気を作り出すことだろう。

地球温暖化による気候変動などの影響を踏まえれば、コロナ禍のようなパンデミック、いやそれ以上の規模の生物災害が、遠い将来、高齢者として生きることになる世代にも襲いかかることは明白だ。今、子どもや若者といった年齢層に区分けされている人々も高齢者になれば、同様の境遇に置かれることぐらいは容易に想像がつくだろう。

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