コロナで考えざるをえない自分や近親者の生死 生命は究極的に制御不可能でありいずれ終わる

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大半の人々は常日頃、「明日死ぬかもしれない」などと切迫感を抱いて生きているわけではない。しかし、突然の事故や病気などによって生命を絶たれることは誰にでも起こりうることだ。いわばコロナ禍はそのうちの1つにすぎないわけである。

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わたしたちの多くは一時的にせよ、コロナ禍をめぐる報道やソーシャルメディアの情報に接しながら、死という最悪の事態を身近なものとして感じ取るだけでなく、生きることそれ自体に内在する根源的な不安に気づく、いわゆる「実存のスイッチ」がオンになった。

それは、「自己の身体」と称しているものが社会的な装飾と概念に覆われたものにすぎず、究極的にはコントロールが不可能な自然の産物であることを受け止めることにつながる。コロナ禍がなかったとしてもわたしたちの生命は例外なく終わりを迎えるからだ。しかもどのような終わりを迎えるかはまったく不確実である。「私たちは常に不確かな状態で生きている」というフィンリーの至言は、まさにこの真理を率直に物語っている。

withコロナ時代はwithデス時代の小さな再興

だからこそ「本当に大事なことは何なのか」という感慨に至るのである。コロナ禍によって仕事や人間関係、ひいてはライフスタイルそのものを根本的に考え直す人々が増えているのは、経済的な理由だけではなく、前述の「実存的な理由」も少なからず影響しているだろう。

「明日死ぬかもしれない」という境地から導かれる内省は、必然的に「今の生き方」の妥当性を問いかけるからだ。「withコロナ」時代は、「withデス」(死とともに歩む)時代の小さな再興でもありうるのである。

いみじくもカミュは、『ペスト』をこのような言葉で締めくくっている。

ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古(ほご)のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠(ねずみ)どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを。(カミュ『ペスト』宮崎嶺雄訳、新潮文庫)

わたしたちは、コロナ禍があぶり出した固定観念という盲点に敏感であり続ける余裕を持ちながら、自分自身や親しき者の死すべき運命に背を向けずにしぶとく生きてゆくほかはなさそうだ。

真鍋 厚 評論家、著述家

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まなべ・あつし / Atsushi Manabe

1979年、奈良県生まれ。大阪芸術大学大学院修士課程修了。出版社に勤める傍ら評論活動を展開。 単著に『テロリスト・ワールド』(現代書館)、『不寛容という不安』(彩流社)。(写真撮影:長谷部ナオキチ)

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