14世紀のドイツは「神聖ローマ帝国」と呼ばれ、皇帝カール4世の統治下でゆるやかな統合体を営んでいました。しかし、ペストの猛威が吹き荒れ始めると、各地域は互いに警戒し合い、“対立と分断”が始まります。
例えば、ドイツの自由都市ケルンは寛容な街として知られていました。ユダヤ人の商人や手工業者は財産と命が保証され、何不自由なく生活を満喫していたのですが、ペスト禍は人々の不安をかき立て、狂気を引き出します。この感染症の流行が、街の共同体がはらんでいた問題点を顕在化させたのです。
突如、ケルンに住むドイツ人たちがユダヤ人を襲い始め、彼らを家に閉じ込めて、家族全員を焼き殺すといった所業がケルン各地で多発しました。運よく助かったユダヤ人も財産すべてを没収され、街を追放されました。
こうしてドイツ各地が対立と分断に向かっている最中、皇帝カール4世は禁じ手を打ちます。1356年に発布した「金印勅書」でした。金印勅書とは、ドイツを7つの選帝侯に分け、彼らそれぞれに主権国家とほぼ同等の権限を与える内容です。
選帝侯には、貨幣鋳造権や裁判権も与えられたので、ほぼ完全な主権国家と言ってもよいでしょう。つまり、彼らは「好き勝手にやっていいよ」というお墨付きを皇帝からもらったことになります。
しかし、これが悲劇の始まりでした。歯止めのきかなくなったドイツでは、ユダヤ人虐殺が拡大、バイエルン州だけで1万2000人が虐殺される事態となります。もし、皇帝カール4世が「宗教寛容令」のようなものを発布して虐殺を止め、分断ではなく統合を選んでいれば事態は収拾できたのかもしれません。でも、それとは真逆の選択をしてしまったわけです。
その後ドイツはますます分裂へと向かい、ドイツ帝国として再統合されたのは約500年後のことでした。その間、ドイツは魔女狩りや三十年戦争などの惨禍にも見舞われます。誤った“選択”で、ドイツは500年間も「地獄に落ちた」のです。
ペスト禍なくしてイタリア・ブランドは生まれなかった
もう一度話をイタリアに戻しましょう。ペストの猛威はイタリア本土からシチリア島におよび、ペストの難を避けられる場はすでになくなっていました。しかし不思議なことに、ユダヤ人という社会的弱者を虐殺する野蛮な行為は皆無と言っていいほどだったのです。これには、カトリック教会最高位であったローマ教皇クレメンス6世が出した「虐殺禁止令」が効果を発揮したといえます。
クレメンス6世は、ユダヤ人虐殺を「悪魔にそそのかされた行為」として断罪し、一切の虐殺を止めようとしました。ドイツではこの訴えは無視されましたが、イタリア国民はクレメンス6世の訴えに耳を傾け、ユダヤ人を守ろうとしました。その結果、イタリアではユダヤ人の虐殺はほとんど発生しなかったのです。
こうした世の動きの中、「イタリアに逃れれば助かる」という噂は西欧世界に拡散し、ユダヤ人が大挙して「ローマ教皇領」を目指しました。ローマ教皇領とは、現在のローマ市からイタリア北部に至る広大な所領で、ローマ教皇の支配下にありました。いわば、唯一の安全地帯だったのです。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら