1964年「東京五輪」に馳せるクルマ天国の思い出 日本経済が前進、自動車産業もイケイケだった

ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

首都高速1号線(江戸橋ー羽田)と4号線(江戸橋ー代々木初台)が、東京五輪の輸送の大動脈になったのは知ってのとおりだが、わが家から4号線外苑ICまでは2分ほどの距離。

なので、仲間のクルマに乗りたくなったりしたら、コースの選択は自由自在。

ほんのチョイ乗りなら神宮外苑1周コース。少し飛ばしたかったら首都高に乗ればいい。

しっかり走り込みたかったら羽田空港まで行き、クルマのいない将来の駐車場予定地で、ジムカーナ張りの走りをトライすればいい。

当時の首都高は、今のような渋滞などまったくなかったし、走り屋にとっては「身近な天国」といった存在だった。

といったように、クルマ好きにとっては最高に恵まれた環境で日々を過ごしていた僕だが、それは大学を卒業して、自動車ジャーナリストの道を選んだ導火線にもなった。

以前にも触れたが、僕は元々放送作家を目指していた。そのため、大学も青山学院を途中でやめ、日大芸術学部放送学科に入り直した。

そして、卒業とともにフジテレビへの入社も内定していた。が、どうしても自動車との関わりをより太く深くしたいとの思いが強く、小さな自動車雑誌社に入った。

そして、なんと、入社翌月には「スポーツカー特集」をそっくり任されることになる。ほとんど取材しなくても、日頃、僕の周りに集まっているスポーツカーのことを書けば、特集1本くらいはゆうゆう書けたからだ。

若くして、すでに多くの貴重なクルマに触れられていた環境は、僕の選んだ仕事で、当然大きなアドバンテージになった。

もともともの書き(放送作家)を目指していたのだから、書くこともまったく苦にならない。入社早々から多くのページを担当し、多くの原稿を書いたが、僕には楽しいことだった。

バイク時代から鍛えた走りも役に立った。

大好きなクルマに乗って、走って、エンジニアやデザイナーの話しを聞いて、インプレッションを書いて……ハッピーな日々だった。

2020東京オリンピックの窮地

1964年の東京オリンピックは、日本経済を大きく前進させるきっかけになった。同時に、日本の自動車産業も「イケイケ」状態になり、並行して自動車メディアの需要も急拡大していった。自動車専門誌だけでなく、一般紙も多くの自動車記事を掲載するようになった。

僕は1964年に自動車雑誌社に入り、1967年にフリーランスになったが、予想をはるかに超える仕事が殺到した。

2020東京オリンピックは窮地に立たされている。1964東京オリンピックが、日本に大きな前進をもたらしたことを身を以て体験しているだけに、今の状況は残念でならない。

でも、この窮地を跳ね返せたら(それには、たぶん幸運にも恵まれることが欠かせないだろうが)、東京は、日本はさらに強くなる。

夢と希望が一気に膨らんだ56年前のあれこれを思い出しながら、幸運を祈るばかりだ。

(文:岡崎宏司/自動車ジャーナリスト)

ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事