1964年「東京五輪」に馳せるクルマ天国の思い出 日本経済が前進、自動車産業もイケイケだった
一般的には無名だが、出るところへ出れば泣く子も黙るような大物もいた。そんな人物でも、わが家に来ると単なるクルマ好きのオッさん。クルマ論争では、われわれ若造につねに押し込まれっぱなしだった。
でも、ご本人は、そんな雰囲気が心地よかったようで、仕事のストレスが溜まると、わが家へ駆け込んできていたようだ。
クルマ好きの集まりとはいってもまさに玉石混淆。クルマ1台を簡単にバラして組んで……といった腕の持ち主もいれば、プラグ交換しかできない人もいた。
日本を代表するようなドライバーもいれば、「今日もご無事でなによりです!」と、声をかけたくなるようなドライバーもいた。
でも、そんな人たちが和気相合でクルマの話しを楽しんでいる。笑い声が絶えない。クルマって不思議なものだなぁ、と、よく思ったものだ。
わが家の周りは「まるでLA!」
ちなみに、こんなことをしていた時期は、ちょうど前回の東京オリンピックに重なっている。1964年前後ということだ。
わが家は千駄ヶ谷駅から徒歩3分といった場所にあり、国立競技場も直近だった。
なので、オリンピックを機に周りの環境が大整備された。代表的なものが青山通り。オリンピック前年に工事が終わり、それまで22mだった道路幅は40mにまで拡幅された。
拡幅と同時に通り沿いの建物も洗練されたものが多くなり、一気に「青山通り」のブランドはハネ上がった。
気の利いたレストランや、ファッション系ショップなども次々にオープン。
青山通りと代々木/千駄ヶ谷周辺の五輪関係施設とを結ぶ道路も整備され、わが家の周りは「まるでLA!」のように幅広い道路で囲まれた。
神宮外苑を含めて、心地よくクルマを走らせられるエリアとして、すばらしい環境が整えられたということだ。
当時、MGA、MGBとオープンモデルを立て続けに買ったのも、そんな環境が影響していいたのかもしれない。たぶん、そうだ。