2つめの理由に挙げられるのが、時流にうまく合わせていったことだ。同店は1966年に飯田橋から神保町に拠点を移すが、当時は世に麻雀ブームが起こりつつあった。それは1970年に入り、第2次麻雀ブームと呼ばれるほどに本格化する。
「学生さんの多くが、雀荘に席を取ってから学校に行くというご時世でした。そこでうちは、雀荘へのカレーの出前を始めたんです。カレーなら麻雀を打ちながらでも、片手で食べやすいだろうなと。もともと神保町には学生が多いし、雀荘も当時は60軒くらいありました。
その目論見があたり、神保町にはカレーの出前をメインとする南海の支店が5軒まで増えました。各支店が雀荘の近くに軒を構え、白衣を着た出前持ちがアルミの出前箱にカレー皿を10枚積み、自転車で運んだ。当時はカレー屋の革命といわれたりもしました」(南山氏)
現在の神保町店の上にも麻雀屋があり、出前をしていたという。
その神保町店はキッチン南海と名乗り、カレーだけでなくカツやフライなどボリュームたっぷりの洋食を手頃な価格で提供する洋食店として歩んでいく。そうした洋食店のスタイルも、時代にマッチしたのではないか。
「創業時は肉がまだまだ貴重で、一部の上流の人しか好きに食べることはできませんでした。それが時代とともにだんだんみんなが肉を食べられるようになり、うちもしょうが焼きなんかを出すようになりました」(南山氏)
バブル期には1日30回転した日も
その後麻雀ブームは落ち着き、南山氏は出前メインの各店舗を閉め、神保町店に絞って営業することになった。
「ちょうど平成になってすぐくらいの頃に、神保町店を改装しました。当時はバブルの時代で、他の店を閉める時にまとまったお金が入ったこともあり、1000万円くらいかけて自分の思う通りに改装したんです」
こうして現店舗の原型ができあがる。その頃から今に続く大繁盛が見られるようになり、バブル期には全28席が1日30回転することもあったという。
そうした中で、神保町キッチン南海で修行したシェフによる「のれん分け店」も多く生まれた。のれん分け店は南海の名を冠した店が多く、一見チェーン店にも見えるが、すべてが独立経営だ。独立に際して特に契約や決まりはなく、唯一「庶民的な値段は守るように」と伝えるくらいだという。
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