すなわち感染対策は「予防措置が徹底される」ことではなく、「措置が徹底されない」ことを前提に立てねばならない。
緊急事態宣言の解除をめぐっても、新たな感染者数の増加を引き起こしてはならないなどという議論がなされましたが、本末転倒の感があります。
感染者の増加は起きて当たり前。それでも対処できるだけの余裕が医療現場にないかぎり、宣言を解除すべきではないのです。
同様、外出の自粛や休業の要請といった行動制限によって、経済活動が大きく落ち込んだのは事実ですが、これは自粛や休業を解除しさえすれば、物事が元に戻ることを意味しません。
コロナウイルスへの不安が浸透したボディ・ポリティックが、行動制限がなくなったからといって、流行が生じる前と同じように振る舞うと考えるほうが間違っている。
今回の感染症による経済被害を抑え込むには、よしんば現時点で流行が収束に向かったとしても、政府による積極財政(休業・粗利補償を含む)が不可欠だと言わねばなりません。緊急事態宣言が解除されれば、それで済むわけではないのです。
もっともわが国において、新型コロナウイルス感染症による死者が、比較的低く抑えられているのは、冬場にマスクをする習慣があったからだとする見解があります。
これは「身体でわかっていなければうまくいかない」の、幸運な裏返しと言えるでしょう。日本国民は、マスクの必要性について、ボディ・ポリティックのレベルで慣れていたのであり、ゆえにうまくいったのです(「『PCR検査せよ』と叫ぶ人に知って欲しい問題」)。
国民を分離できると思うな
負けず劣らず間違っているのが、「分離型自粛緩和論」とも呼ぶべき発想。
今回のコロナウイルス、高齢者や基礎疾患のある者以外は、重症化率も死亡率も低いのだから、それら「コロナ弱者」さえ隔離して保護すれば、あとの人々は自粛しなくてよいはずだ、という考え方です。
すると「集団免疫」(社会集団を構成する人の大部分が、特定の病原体にたいする免疫を獲得することで、免疫を獲得できない人も感染をまぬかれること)が早く達成され、回り回ってコロナ弱者のためにもなる次第。
ちなみに集団免疫の概念も、それ自体、ボディ・ポリティックの発想を前提にしています。
国民全体が「ひとつの巨大な身体」を構成しているように見なしうるからこそ、その大部分に免疫ができれば、残りも大丈夫だということになるのです。
詳しくは「感染症と自粛疲れから『国民の2つの身体』を守れ」をご覧下さい。
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