岩田健太郎「感染症の最前線で働く激しい恐怖」 コロナ禍の今「レストン事件」を振り返る
ここでいうフォート・ディートリックとはユーサムリッドがある地名のことだ。前述のように1970年代以降は、ユーサムリッドは感染「防御」の目的のための研究に専念し、兵器そのものの開発はしていないとされる。
しかし、バイオテロ事件に用いられた炭疽菌が実は中東やロシア、北朝鮮といった国ではなくアメリカ産の「エイムズ株」であったこと、アメリカ司法省が「バイオテロの犯人」と断定した科学者ブルース・イビンズがかつてユーサムリッドに長年勤務していたこと、そのイビンズも2008年に服薬自殺し、本件の真相が闇の中な状態のままであることなどから、ユーサムリッドが本当に1970年代以降、生物兵器開発を止めてしまったかどうかについては異論もある。
専門家が戦慄した「レストン事件」
そのユーサムリッドの専門家たちが戦慄したのが、1989年に起きたヴァージニア州レストンでのサルのエボラ・ウイルス感染症事件(レストン事件)だ。
エボラ・ウイルスが発見されたのは、1970年代のアフリカだ。マールブルグと同様、フィロウイルスである。ザイール(現コンゴ民主共和国)にあるエボラ川からその名をとったウイルスである。非常に致死率が高いマールブルグよりもさらに死亡率は高く、エボラ・ザイールと呼ばれる株は死亡率90%(当時)の実に恐ろしいウイルスだった。
その恐怖のウイルス感染がなんと、アメリカで発生した。これが本書で紹介される「レストン事件」である。
アフリカのウイルスと思われていたエボラ・ウイルスが、アメリカのヴァージニア州の霊長類検疫所(モンキー・ハウス)で、なぜかフィリピンから輸入されたカニクイザルから発見された。レストン型と呼ばれる、当時は知られていなかったエボラ・ウイルスの一種である。次々に出血して死亡するサルたち。現場に入るものの惨状に恐怖する専門家たち。
専門家たちのアクションやそのときの葛藤が実に興味深い。例えば、ナンシー・ジャックスは最大級の微生物封じ込めの防護レベルを持つレベル4(ホット・ゾーン)に入り、ユージーン・ジョンスンとともにエボラ・ウイルスの研究をしていた。手に怪我をしていたのだが、実験中に手袋に穴があいたために、すわ感染か、という恐怖の体験をする。
ホット・ゾーンとは本書のタイトルにもなっているが、危険なウイルスなどの病原体がいて、最大級の防護措置が必要となるエリアのことをいう。病原体がいない安全なエリアと目される場所は本書ではホットに対比して「コールド」なゾーンと称されている。その中間にあるのがグレイ・ゾーンだ。
これは、2020年、本解説を執筆している時点で、世界中で猛威をふるっている新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対策における「レッド・ゾーン」と「グリーン・ゾーン」に対比できる。いわゆる「ゾーニング」の問題だ。
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