立ち回りやコネ"だけ"の人間をはじくには? 品質を保証するための審査が「間違い探し」よりも難しい理由

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まずはウェブ上のアーカイブで、というやり方も

コンピュータサイエンスでは、研究集会で発表された研究をプロシーディングス(研究集会紀要とでも言えばいいだろうか)という本にして出版することが多い。このため、レフェリーレポートも締め切り厳守、著者の返事も数日から数週間以内、2回目の審査で必ず最終決定、というふうになっていたりする。

要するに、とにかくスピードが早い。もちろんこれには良い点も悪い点も両方あるけれど、出版にやたらと長い時間がかかる経済学からすると、ちょっとうらやましい制度だと思う(今年、わが校でやるECというコンピュータサイエンスの研究集会に論文を投稿したら「査読者のコメントをみて2日以内に返事をしてね」と言われてたまげました)

分野によっては、論文の審査はほとんどなく、研究者自身がウェブ上のアーカイブみたいなところにアップロードした論文を、みんなが自由に読む中で評価が決まっていくという。僕は詳しく知らないのだが、同僚によると物理ではこの方式がかなり定着しているのだとか。

経済学にもこの仕組みの変種のような習慣があって、論文は草稿の段階からまずは自分のホームページに載せて、その後ゆっくりジャーナルに載せるのを目指していく、というのが普通になっている。

論文審査の制度はなくすべきか?

内輪ネタをあんまりずっと書くのも気が引けてきた。なのでそろそろおしまいにするけれども、最後にちょっとだけ意見めいたものを。

時々、「研究の方向が歪んでしまったり、捏造が起きたりしてしまうので、そもそも学者の世界に研究業績至上主義を導入するのはやめるべきだ。だから専門誌なんていう業績評価の権化みたいなことはやめてしまって、学者には自由な研究をさせるべきだ」という意見をいう人がいる。

もっともな点もあるけれど、少なくとも僕は、自分の経験からもあまり賛成できない。この連載で何度か書いた(「大学教員」以前に「研究者」? 仕事としての「研究」のリアル)ような気がするが、学者の研究を完全に自主性に任せることは、まともな研究をする意欲をそぎすぎてしまうだろうと思う。

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