大林宣彦が小津安二郎に見ていた映画人の凄み 戦争を描かないことが戦争を描く手法だった

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シンガポールで小津さんはあらためてアメリカ映画の素晴らしさにショックを受けると同時に、「アメリカ人がつくるような映画をつくっていても勝ち目はない」ということを学ばれたのだと思います。

それで小津さんは「自分は豆腐屋(日本映画の監督)なのだから、豆腐(日本映画らしい日本映画)しかつくらない」という考えを持たれました。そういう覚悟を持って小津さんは、小津さんならではの映画をつくっていったということです。

小津さんの映画には戦争は映っていませんが、小津さんにとっては戦争を描かないことが戦争を描く手法なのです。

時間がたつにつれて、そういうことがわかっていきました。

『秋刀魚の味』と『彼岸花』に込められたメッセージ

では、小津さんはまったく戦争を描いていないのでしょうか?

いつも父親が娘を嫁に出すような親子の話ばかりを描いていたのかといえば、そんなことはありません。

晩年の映画でいえば、たとえば『秋刀魚の味』で、笠智衆さんは駆逐艦の元艦長だったサラリーマンを演じています。

笠智衆さんは、かつての部下だった加東大介さんと一緒に軍艦マーチが流れるバーに行きます。いわゆる軍国バーです。以前には日本中どこへ行ってもありました。軍歌を歌いながら負け戦を語り合うことにはある種のカタルシスがあったのでしょう。「あいつは死んだけど、軍歌を歌いながらあいつのことを語れば弔いになる」というように昔を懐かしみながら酒を飲むわけです。

『秋刀魚の味』では加東さんが「もし日本が勝っていたら……」という話を持ちかけて、笠智衆さんがこう答えます。

「けど、負けてよかったんじゃないか」

それに対して加東さんは「確かにバカな上官が威張らなくなっただけでもよかった」と同意します。

笠智衆さんの言葉は素晴らしい敗戦のメッセージです。

どうしてかといえば、「負けてよかった」という言葉こそ、日本人の誰もが口にすべきことだったからです。敗戦当時は誰もそう言えず、戦争なんてなかったことにして忘れてしまいたいとなっていたのです。『秋刀魚の味』より少し前に撮られた『彼岸花』では、佐分利信さんと田中絹代さんが長年連れ添ってきた夫婦を演じていて、田中絹代さんが「あの頃は幸せでした」と話します。

あの頃とは戦争中のことです。

戦争はつらく、多くの人が死んでいってしまったけれど、防空壕ごうで家族が肩寄せ合い、敵機におびえながらも互いの身を守り合おうとしていた頃は、家族がひとつになれていたというのです。

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